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骨董漫遊

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骨董店から初めて購入したそば猪口(前列右)。その左隣が、翌日に購入した松の図柄のそば猪口
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骨董店から初めて購入したそば猪口(前列右)。その左隣が、翌日に購入した松の図柄のそば猪口

 骨董(こっとう)に取りつかれてしまった夜のことを、今も鮮やかに思い出すことができる。

 1997年5月のことだ。神戸市内の骨董店の店先に、古伊万里(こいまり)のそば猪口(ちょこ)が見えた。なんとなく、その器で日本酒を飲んだらうまいだろうと思った。中でも松の図柄のものが気に入った。

 店主に値段を聞くと「1万5千円」という。驚いた。口径8センチほどの磁器の容器が、1万円以上の値段とは思っていなかった。ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐい始めた私に店主が言った。

 「お客さん、骨董を買うの初めてやね」

 私は黙ってうなずいた。大恥をかいた気分になり、その場を立ち去りたかった。だが、初老の店主は、したたかな「商売人」だった。

 「お客さん、このそば猪口を見て、何かピンとくるもの、あったんとちがう? それは、あんたの感性が素晴らしい証拠や」

 「ええか、この松の絵は、江戸時代の職人が手書きしたもんや。いわば、小さな芸術作品。いろいろな種類の図柄があって、集めだすとやめられなくなる。骨董入門には最適のアイテムや…」

 はげ上がった頭にジャンパーをまとった店主から、「アイテム」などという英語が飛び出したのには笑った。だが私は、ハエ取り紙に付着したハエのように、店主の御高説を上下に首を振りながら聞くしかなかった。

 そば猪口に関する知識は多少、あった。ただ、値段については全くの無知だった。

 やはり、1万5千円を払う決断がつかない。しかし、何も買わないで帰るのも悪いような気がした。そこで、値が半額で飲み口に傷のある猪口を買って帰った。

     ◇

 その夜のことである。

 自宅で猪口を漂白剤につけて殺菌し、念入りに洗って早速、晩酌を始めた。すると、どうしたことか、買いそびれたあの松の図柄が、脳裏に浮かび上がってきたのだ。

 「なぜ買わなかったのだろう」。夜通し、深い後悔の念にさいなまれた。

 猪口の飲み口の傷には、恐るべき「骨董熱の元」が潜んでいたに違いない。それが一夜のうちに、私の体内で広がったのだ。

 翌日、仕事が終わると、すぐに店に向かい、店頭に並んでいた松の図柄の5個、すべてを買った。財布には、少し前に亡くなった母への香典が入っていた。

     ◆

 骨董に心奪われて、20年以上の歳月が流れた。これまでの体験や業界のことなどをリポートしたい。願わくば、少しでも骨董ファンが増えることを願いつつ。

 (骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)

2020/8/17
 

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