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骨董漫遊

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玉置の絵を鑑賞したことを記した、啄木の明治35年11月7日の日記(「啄木全集」第13巻)
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玉置の絵を鑑賞したことを記した、啄木の明治35年11月7日の日記(「啄木全集」第13巻)

 京都の骨董(こっとう)祭で、初恋の人に似た少女の絵を購入した私は、絵のサインの「T・TAMAKI」なる人物について調べた。「美術年鑑」などから、和歌山市出身の玉置(たまき)照信と推定した。

 「玉置照信画伯遺作集」(1958年・同遺作刊行会発行)を入手し、巻末の「小伝」を読んでみる。しかし、私でも分かるような事実誤認が何点もあって、信用できそうになかった。ネット上で見つけた「近代日本版画家名覧(1900~45)」の記述が最も正しいと思われた。

 なんと執筆者は、この連載でも登場願った、版画に詳しい兵庫陶芸美術館長の三木哲夫氏だった。玉置が後年、版画制作も試みたためだ。

 それによると、玉置は1898(明治31)年、東京美術学校(現東京芸大)西洋画科選科に入学、黒田清輝の指導を受ける。1900(同33)年のパリ万博では、白馬会より「昼餐支度(ちゅうさんしたく)」を出品している。02(同35)年、やはり画家だった妻の茂登子らと紫玉会を結成し、絵画展を開催した。

 05(同38)年発行の「大日本絵画著名大見立」という画家の番付表がある。当時の画壇を反映して大半が日本画家の名前だ。そこに小さく油画(西洋画)の欄があり、黒田清輝、久米桂一郎ら52人の名が並ぶ中に玉置の名も記されている。将来を嘱望された絵描きの一人だったのだろう。

 その後は、主に大劇場などの舞台装置家として活躍。画壇との交流は少なく、晩年の脳卒中の後遺症もあって、忘れられた画家になったようである。

 さて、前回の原稿で紹介した石川啄木の日記に記されている少女の絵は、私が所有する絵だったのか-。

 玉置の地元の和歌山県立近代美術館に写真を送り、問い合わせた。玉置の絵を数枚、所有するが、彼に関する調査は進んでいないとのことだった。ただ、「絵柄から可能性は十分にある」との返信をいただいた。

 啄木は玉置らの作品について、日記に「色彩の使い方如何(いかが)はしく旧派に属す」と記している。明治期の西洋画における「旧派」とは、褐色調の暗い画面が特徴的な作品を意味する。玉置が学んだ黒田清輝は、フランス印象派の影響を受けた「新派」を代表する画家だったが、啄木の目には「旧派」と映ったようだ。

 それにしても、啄木が少女の絵を「やや見るべし」と評価したのはなぜか。

 もしかして私と同じ理由? つまり、好きな女性(後の妻節子)と似ていたから…。単なる臆測である。

 (骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)

2021/3/1
 

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