骨董漫遊
前回に続いて、古代中国の古印について書く。
封泥(ふうでい)に始まり、後に金印風の古印に魅了された私は、大阪・四天王寺の縁日に出掛けては一つ、また一つと買い続けた。ある日、なじみになった店主が私にこう言った。
「きょう限りで骨董屋は引退だ。これまでのお礼に、あんたにもらってもらいたい物がある」
周囲に客がいないことを見計らったように、店主が黒い木箱を開ける。中に、金色の一升升のようなものが見えた。上部中央の球形の突起に、3匹の竜が絡んでいるような浮き彫りだった。
「これも印ですか?」
大きすぎると思った。それまでに老人から買った印は、最大でも4センチほどだった。木箱の印は、一辺がその3倍はある。いや、と思い直す。豪華な装飾、桁違いの大きさ。私は、これはただ物でない、と直感した。
「裏返して印面を見てごらん。その文字、読めるか」
「大、清…、えっと…。帝國の、何だろう…、璽(じ)だ」
「正解だ、大清帝國之璽、清国の国璽や」
「えっ! なぜ、そんなものが、ここに…」
「昔、父親が旧満鉄(南満州鉄道)の職員だったという人から買った。本物なら相当な価値があるはずや」
うん千万円か、安くても100万円を下回ることはないだろうと値踏みする。
老人は印を風呂敷に包むと、私に差し出した。もらってほしいと言われたが、ただほど怖いものはない。私は財布にあった10万円を店主のポケットに押し込んだ。
自宅で計測すると、縦、横、高さともに約12センチ。重さは3・2キロもあった。
「中国官印制度研究」(東方書店)を繰ってみる。「官印図版」一覧の中に「大清帝國之璽」はあった。文字の配列や形はそっくりだ。清の年号で光緒(こうしょ)の末年(1908年)か、宣統(せんとう)に改元(09年)して間もない時期につくられたと記されていた。
清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の手がこの印に触れたかもしれないと考えると、呼吸が荒くなった。
だが、後半の説明文を読んで「あっ!」と声を上げる。素材は「檀香木(だんこうぼく)」。本物は金属ではなく、白檀などの香木でなければならないのだ。一瞬にして、夢は粉砕された。冷静に考えれば、清朝末期の混乱時とはいえ、重さ3キロを超える金属印を作る必要はない。だいたい、押印の際、大事な書類を破る危険があるではないか。
その後、あの店主から買ったほかの“金印”に次々と緑青が生じるようになった。拭いても、拭いても…。これこそ夢の残骸-と思う、今日この頃である。
(骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)
※電子版の神戸新聞NEXT(ネクスト)の連載「骨董遊遊」(2015~16年)に加筆しました。
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