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骨董漫遊

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池上宥昭さんの10年がかりの成果が掲載された貨幣の収集・研究専門誌「収集」
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池上宥昭さんの10年がかりの成果が掲載された貨幣の収集・研究専門誌「収集」

 「但馬南鐐(なんりょう)銀」の話を続ける。私は文献で確かめようと図書館に行き、旧生野町役場が1962(昭和37)年に発行した「生野史校補鉱業編」を探し出した。中に「山師の私鋳(しちゅう)銀」という一節があり、友松孫左衛門という山師が私的に鋳造していたのが、但馬南鐐銀の始まりと分かった。

 だが、なぜ孫左衛門は私鋳したのか、どうしてそれが流通したのかは不明だった。

 昨年末のことである。貨幣の収集・研究の専門誌「収集」(書信館出版)に2020年11月号~21年1月号の3回にわたって、「但馬南鐐銀」の論考が掲載されていることを偶然知り、取り寄せてみた。

 11月号を開くと、古文書の写真がずらり並んでいた。立派な学術論文である。孫左衛門の活躍時期など、筆者が新たに調べた史料を先行研究と比較、検証した労作だ。

 早速、著者の池上宥昭(ゆうしょう)さん(31)に連絡を取った。池上さんは京都府向日市の僧侶だった。学生時代から但馬南鐐銀に関心を持ち、現地に何度も足を運んで、10年がかりで書き上げた論文だという。

 山師とは、税を納めて銀山の採掘を請け負う鉱山業者を意味する。孫左衛門は一時、「7、8カ所」で採掘が許された有力な山師。役人からも一目置かれる存在だった。

 「孫左衛門は、雇っていた模範的な鉱夫に褒美や恩賞として与えるため、『私鋳』したのではないか。それが銀の価値を知る鉱山関係者に貨幣として認知され、一分銀として流通するようになったのでは」と池上さん。

 但馬南鐐銀の鋳造は慶安年間から約50年間続き、いったん中断。その後、代官の肝いりで復活し、銀山の「名物」として知られたという。

 池上さんは、文献や今に残る現物を丹念に調べ上げ、「但馬」の文字の異なりなどから16種類、100枚以上が存在することを確認した。現存数は「多くても200枚まで」と推測する。

 その希少性などから、旧生野銀山の中心地だった朝来市では、6枚の但馬南鐐銀を市の指定文化財にしている。

 「収集」11月号の池上さんの論文に、「生野銀山領一覧」が載っている。そこに記憶に残る複数の地名を発見した私は、ひどく興奮した。前回紹介したように三十数年前、まだ記者だった私は勤務地の但馬の民家で、大量の銀貨が入った壺(つぼ)を見た。あの民家もまさしく、生野銀山の領内にあったと確信したからだ。

 池上さんにその話をすると「見つかれば、歴史的発見ですよ」と返ってきた。よし、春になったら、ダメもとで探しに行こう。

 そして思った。朝来市は「但馬南鐐銀」の一粒チョコでも発売して、地域の宝をもっとPRすべきではないか、と。

 (骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)

2021/2/15
 

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