エッセー・評論

ピアニスト牧村英里子と世界のヒトビト

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真夜中に「聖なる岩山」から見たパルテノン神殿 「壁一面にエリコそっくりの落書きがある!」とフォトグラファーに急き立てられて、急遽撮影会(写真:Kenn Clarke)
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真夜中に「聖なる岩山」から見たパルテノン神殿

「壁一面にエリコそっくりの落書きがある!」とフォトグラファーに急き立てられて、急遽撮影会(写真:Kenn Clarke)

  • 真夜中に「聖なる岩山」から見たパルテノン神殿
  • 「壁一面にエリコそっくりの落書きがある!」とフォトグラファーに急き立てられて、急遽撮影会(写真:Kenn Clarke)

真夜中に「聖なる岩山」から見たパルテノン神殿 「壁一面にエリコそっくりの落書きがある!」とフォトグラファーに急き立てられて、急遽撮影会(写真:Kenn Clarke)

真夜中に「聖なる岩山」から見たパルテノン神殿

「壁一面にエリコそっくりの落書きがある!」とフォトグラファーに急き立てられて、急遽撮影会(写真:Kenn Clarke)

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 今年7月、ベルリンで1週間に渡って芸術祭が開催される。オープニングイベントが在ドイツ・デンマーク王国大使館で行われるのだが、そこでのパフォーマンスへの公式招待状が届いた。後に続く芸術祭にもパフォーマーとして参加する。

 それで思い出したのだが、同芸術祭は前回アテネで行われた。2016年のことである。当時のギリシャは財政破綻直後で、一時は銀行から引き出せる上限額が1日60ユーロという状況下で少々不安を覚えたが、神々坐す彼の地への憧憬が勝り、最終的に芸術祭への参加を決めた。

 キュレーターに導かれた宿泊先のベッドルームからの景色を見て私は度肝を抜かれた。なんと、眼前にパルテノン神殿がその神々しいお姿を露わにしていらっしゃるではないか。

 闇が立ち込めると、ライトアップされた神殿はもはやこの世のものとは思えず、私の貧弱なボキャブラリーでその美しさを描写することは不可能となった。そして、神々の乱舞に幻惑されているうちに初日の夜は明けた。

 2日目。さすがはギリシャ神話発祥の地である。この世はカオス(混沌)から生まれたとの伝承にふさわしく、何もかもがカオスなのだ。街中でストライキが勃発し、スト情報が得られる携帯アプリまで開発されている。されど、郷に入っては郷に従え。秩序の国出身の私だが、郷に入ったからには一瞬でその国の在り方に慣れねばならぬ。事前に頼んでおいたピアノの練習室確保の要望など、エーゲ海のはるか彼方に流されてしまっているが、そんなことはどうでもよいのである。

 私のお世話を引き受けてくれたジョージとデイビッドが、仕事が終わると毎夜街を案内してくれるのだが、これが楽しくて仕方がない。

 800人のホールでのリサイタル前夜、夕食が終わると「聖なる岩山に登ろう」と言い出したのはデイビッドだった。大抵のピアニストは、本番前夜の夜中に聖なる岩山に登ったりはしないと思うが、こんな機会はまたとない。サンダル履きだったのが少し気になるが、オリュンポスに在わす神々が守ってくれるであろう。私は2人に手を取られながら、つるつる滑る岩壁をよじ登った。

 頂上に着いた。

 私は..私はなぜ詩人ではないのだろう。なぜ、サンダル履きの一介のピアニストなのだろう。この神殿の圧倒的な美を伝える手段を持たぬ、無能の身の悲しさよ。

 手を差し伸ばせば届きそうな位置に、パルテノン神殿が輝いている。

 感極まって私は泣いた。ジョージとデイビッドは笑って、いつまでも私の手を握っていてくれた。

 また、別のパフォーマンスの前日のこと。この日もピアノの練習室はもちろん予約されておらず、図らずもデイオフとなった私を地元のご夫妻がヨットの旅に誘って下さった。イオニア海に漕ぎ出して、イルカと一緒に泳ごうと言う。

 魅惑的なお話である。船酔いと、もし溺れたら… との不安がやはりチラリと掠めたが、海を司る神ポセイドンが守護して下さるであろうとこれまた深く考えないことにして、迎えの車に乗り込んだ。

 私は…私はなぜ詩人でないのだろう。なぜ、量販店で買ったサイズの合わない水玉模様のビキニを着た一介のピアニストなのだろう。このターコイズブルーの圧倒的な美を伝える手段を持たぬ、無能の身の悲しさよ。

 残念ながら、イルカはその尾ひれを見るにとどまったが、あの透徹の青に包まれた一日を私は一生忘れない。

 肝心の芸術祭の模様をすっ飛ばして、まるでバカンス回顧録のようになってしまったが、私は1週間の滞在でアテネという街、そしてそこに住むヒトビトにどっぷり恋に落ちてしまったのである。

 しかし。

 ギリシャの神々をあなどってはならぬ。新参者は所詮無知であった。旅人エリコは、最終日に全能の神ゼウスの気まぐれに翻弄されることになる。

 空港行きの電車で、私は翌日に予定されているストックホルムでの公演のプログラム最終チェックに没頭していた。地下を走る電車。そしてなんの前触れもなく、駅と駅の間で突如それは停まった。

 びっくりして顔を上げると、車内の乗客は私一人。これは一体どうしたことか。

 もしや、もしや、これはかの有名なストライキというやつではないだろうか...。

 そう言われてみると、一つ前の駅で盛んにアナウンスが流れたような気がする。そして、大量の人が降車したような気がする。

 閉所恐怖症持ちの私は、不安のボルテージが5段飛びに上昇する中を、成すすべもなく震えながら立ち尽くした。そこへもって、停電である。

 私は完全に狂い始めた。助けて、助けてー、とドアをバンバン叩く。

 絶望の断崖絶壁で身悶えていると、やがてトンネルの向こうから蛍光ベストを来た人影がこちらに向かって来るのが見えた。涙でグショグショになった顔でドアを叩く狂気のアジア人を見つけて、蛍光ベストの警備員の方が卒倒しそうなほど驚いている。

 言葉の通じぬ2人は怒鳴りあうようにそれぞれの母語でドア越しに状況をまくしたてた。怒鳴りながらも、彼はどこかに電話をかけている。

 万策尽きた心地でへたり込んでいたところ、車内の電気が突然点灯された。そして、電車は空港とは逆方向にのたのた進み始めた。警備員が、呆れたような半笑いで私に手を振っている。

 警備員の通報により、ストライキ中にも関わらず電車の運転手がやって来て、どうやら私一人のために最寄駅まで運んでくれることになったようだ。

 ああ、全能の神ゼウスよ...。

 秩序の日本で混沌のギリシャを思いながら、ひたすら時間に追われる一日を今日も送ってしまった。

【お断り】

神話における「カオス」には、「混沌」の他に「空隙」「虚空」の意味がありますが、今コラムの内容上、「混沌」の意味で使用しています。

2018/3/19

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