エッセー・評論

ピアニスト牧村英里子と世界のヒトビト

  • 印刷
ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen) ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)
拡大

ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

  • ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)
  • ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen) ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

  • ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)
  • ドキュメンタリー映画 「BEING  ERIKO」より(撮影: Henrik Bohn Ipsen)

  ドキュメンタリー映画「BEING  ERIKO」の撮影はデンマークの首都、コペンハーゲンで始まった。2017年夏のことである。 

 映画の撮影は結果的に、デンマーク、ドイツ、ポーランド、そして日本と4カ国で行われた。「結果的に」と述べたのは、映画監督のヤニックが言うところの「我々はエリコの行くところをただひたすら忠犬のように追い続け」たからで、クランクアップがいつになるか長らく未定だったゆえである。また、制作会社はデンマーク、映画監督はイタリア在住、撮影監督は世界中を飛び回っており、私も旅に次ぐ旅の生活で、一体どのようにスケジュール調整をなし得たのか今となっても全く分からない。

 日本での撮影は2018年の3月下旬から4月にかけて私の故郷、兵庫県で行われた。ちょうど桜が満開で、明石公園では一同歓声を上げた。東京でも撮影予定だったが、我が地元を監督たちが大変気に入り、私の育った街とそこに住む仲間たちとの交流を帰国の途に着くギリギリまでカメラに収め続けていた。

 ポーランドには撮影班と2度訪れた。最初の旅では、まず私が学生時代を過ごしたドイツの首都ベルリンに集合してロケ、そこから電車でポーランドへ移動となったのだが、音響のモーテン以外は私も含めて一歩動けばドラマ(トラブル)が発生するタイプのヒトビトだ。現地入りもそれぞれ別々の国からで(ヘンリックは確か直前までアフリカ大陸にいた)、皆より1日遅れて私はコペンハーゲンからベルリンの地を踏み、全員が無事再会したのは奇跡のようだった。

  さて、再会は果たしたものの、ポーランドへの旅は難航した。ベルリン中央駅の電光掲示板にはすでに「1時間遅延」の表示。1回乗り換えの5時間の旅程だが、乗り継ぎの可否が案じられる。

 関西で言うところの典型的な「イラチ(せっかち)」である私は遅延への許容度はゼロなのだが、さすがは百戦錬磨のドキュメンタリー班。実は音響のモーテンが前々日に食中毒を患ってしまい、真っ青な顔でベルリンロケをこなしていたが、私のこめかみに青筋が浮かぶのを見るや、彼は駅構内の店で色とりどりのドーナツを20個も買ってきてくれた。各自が5個ずつそれを食べると、我々は朝からシュガーショックでハイになった。ドキュメンタリーのみならず、映画界に身を置く人は待つことこそ仕事の重要な一部だと言う。待ち時間をいかに和やかに楽しく過ごすかで、その先の意気込みも自ずと変わるし、また体力温存の機ともとらえるのだろう。 

 ベルリンからポーランドの都市ブィドゴシュチュへの旅は、結局ローカル線を乗り継ぎ乗り継ぎの8時間越えとなってしまったが、温かく出迎えて下さった地元のアートグループとはすぐに打ち解けて、ポーランド伝統料理屋で乾杯となった。それから3カ月後、私も含めた総勢10人が日本からポーランドに集結してパフォーマンスを行い、その模様はドキュメンタリー映画の一部に集約されている。

 フィクション映画と比して、ドキュメンタリー映画制作における最難関のひとつは、監督が「カット!もう1度」と指示できないことであろう。

 絵としてどんなに欲しい場面であっても、ドキュメンタリーの性質上「シーンの再現」は基本的に不可能だ。また、めちゃくちゃなスケジュールに振り回される私を、重い機材と共に追う撮影班はさぞかし大変だったと思う。しかし再現不可能だからこそ、一瞬一瞬にかける思いは強く、予期せぬ出来事に遭遇する喜びもまたひとしおだと彼らは熱弁する。

  しかし、撮影が終わり、じゃあまたねと、皆がそれぞれの国に帰国してしばらく経つと、私は決まって気鬱に悩まされた。照る日もあれば大時化(おおしけ)の日もあり。喜怒哀楽愛憎の吐露全てが容赦なくレンズに吸い取られていることを思い出すにつけ、それが私に一種の精神の破綻をもたらした。

 原則として私の舞台はテーマありきである(その多くが制御不可能なヒト本来が持つ源泉の感情とカタルシスへの彷徨)。ストーリーテラーとして100%のコントロール下にある我が舞台を、準備段階も含めて撮影監督が撮り、それを材料に今度は映画監督が彼の主観最優先で脚本を構成する。そして映像が編集され、最終的に1本のドキュメンタリー映画として世に出るのだ。実際の私と、監督が主観で作る映画の主人公である私の間に、決定的な乖離(かいり)が生まれることは必定であろう。

 ... とまあ、苦しい時もあったが、そもそも私の主戦場はナマの舞台であり、ドキュメンタリーはあくまで監督のものであると気持ちの決着をつけ、国から国への移動の日常は映画とは別に否応なく続いた。

 そして今年の2月初旬、イタリアにいる映画監督からメールが届いた。

  「我々の映画が3月開催のコペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭でワールドプレミアを迎えることになった。作品はコンペティション部門にノミネートされたよ」

 このメールを受け取った約10日後、まずは制作会社とのミーティングと幾つかの取材のため、私はコペンハーゲンに飛んだ。公演無しの1週間の旅なので、隣県への出張のような軽装である。

  たった1週間の出張がまさか大波乱の1カ月になるとはまだ知る由もない、今より3カ月若い純粋無垢なマキムラエリコだった。若さとは、罪。

後編に続く。

 

2020/5/11

天気(8月5日)

  • 34℃
  • 26℃
  • 20%

  • 35℃
  • 22℃
  • 20%

  • 36℃
  • 25℃
  • 20%

  • 38℃
  • 25℃
  • 20%

お知らせ