車掌は、13時35分にA駅に降りて、そこで13時27分発のB駅行きの電車に乗ればよいと、SF感満載の助言を与えてしまったことをしきりに詫びているようである。ポーランド語なので、私には「マダーム、マダーム」の部分しか聞き取れないが、本当に申し訳ないという彼の気持ちは十分に伝わってくる。
車掌はスマートフォンを取り出すと、何やら調べ始めた。そしてしばらくすると、目を輝かせてこう叫んだ。「マダーム、スリー・ミニッツ!」
私の旅行バッグを左手に持ち、右手で我が腕を取ると、彼は一心に走り始めた。車掌が指差すはるか彼方のプラットホームに、ちんまりしたローカル電車の姿がある。どうやらあの電車に乗るように言っている模様だ。そして、スリー・ミニッツ、すなわち3分後に発車するので、私は急がなければならないらしい。
...私?
しまった。今回はひとり旅ではなかった。仲間が3名いる、私「たち」の旅であることをすっかり忘れていた。
振り返ると、旅仲間が駅の向こう側に呆然と立ち尽くしてこちらを見ている。ここでジャパニーズ・マリア・カラス嬢は再び張り裂けるような雄叫びを上げた。
「ラーーーーーーンッ(走れっ)」
スーツケースをゴロゴロ引いて、ヴァイキングたちは必死に走り始めた。車掌と腕を組んで、私も走る、ひた走る。かなりふくよかな車掌の額から汗が滴り落ちている。なんて良いヒトなのだろう。私はもう少しで恋に落ちそうになった。
「マダーム、ボン・ヴォヤージュ」
我々4名が飛び乗った瞬間、電車の扉は閉まった。この車掌の親切を私は一生忘れるまい。
乗車して一息つくと、心を落ち着かせるためにシュテファン・ツヴァイク著の「マリー・アントワネット」をバッグから取り出して読み始めた。中学生の時に読んで以来だが、さすがは伝記物の大巨匠、ツヴァイク氏。彼の書き口・切り口の鋭さ、深い洞察力に、改めて感銘を受けることしきりである。
「パンが無いならお菓子を食べればいいじゃない」
これはマリー・アントワネット自身の言ではないらしいが、ああ、このフランス王妃の悲劇的人生といったら..。
と、ここで私はにわかに空腹を覚えた。
そうだ、ベルリンで買った20個のドーナツのうち、まだいくつか残っているではずである。パンが無いならドーナツを食べよう。
「ドーナツの箱はどこかしら?」とデンマーク人たちに尋ねたところ、彼らの顔から一斉に血の気が引くのが分かった。私の激情型性格を知り抜いている3名の間で、真実の口火を誰が切るのかと激しい目配せが交わされた。
「... エリコ、本当にごめん。あのドーナツ、前の電車で僕たちの隣に座っていた乗客にあげてしまった...」
一番若いヴァイキングが意を決して告げた瞬間、私はパンもお菓子もない革命直前のフランス国民と同じくらい激怒した。まさかドーナツのことでここまで怒れるとは、ほとんど狂気の沙汰である。
ジャパニーズ・マリア・カラス嬢、すなわち私は無口になった。怒りの抑制には無口になるのが効果的である。しかし、普段からのべつまくなしにお喋りに興じるヒトが突然話さなくなると、ロベスピエールの恐怖政治並みの恐ろしさを生み出してしまうようだ。車内は私が醸し出す異様な空気に包まれ、しんと静まり返ってしまった。
その後もアクロバティックな乗り換えなどの紆余曲折があったが、フェスティバル主催者側からの細やかなメッセージによるサポートのおかげで、ベルリン中央駅を出発してから8時間強の後、本日の最終目的地、ブィドゴシュチュに無事到着した。
私たちはここで大歓迎を受けた。大騒ぎで駅まで迎えに来てくれたオーガナイザーたちとは初対面にも関わらず、まるで旧知の仲のように何度もハグが交わされる。さあさあと車に乗せられ、最初に向かった先はなぜか撮影スタジオであった。そのまま写真撮影となり、終わると今度は私の宿泊場所へ連れて行かれた。
私は再び度肝を抜かれてしまった。そこはまるでラプンツェルが住むような、童話の世界そのものの塔だったからだ。この塔一棟丸ごと、今晩からの我が宿となるのだ。メゾネット式フラットの最上階に上がって裏窓を開けると、ブィドゴシュチュの街並みが一望できる。私は疲労した身体を柱の間に吊されたハンモックに横たえた。階下で「エリコ、ブィドゴシュチュへようこそ!」の声があがり、誰かがギターを弾き始めた。
ああ、このボヘミアンで温かな雰囲気。涙が出そうだ。感動に浸っていると階段を登る足音がして、美しい女の子がそっとハンモックを揺らした。これから夕食を食べに行こうという。
ポーランドの伝統料理は素朴で本当に美味しい。その夜に注文したメニューを紹介する。
ゴウォンプキ…ロールキャベツの一種。中に米や大麦も混ぜられているので、ふわっとした食感。トマトソースやキノコのソースと共に旨味を楽しむ。
ピエロギ…日本の餃子によく似ている。餃子より皮が厚くてもちもちしており、マッシュポテトやベーコン、ほうれん草、フルーツなど、さまざまな具材を包む。
ビゴス…千切りしたキャベツとザワークラウト、肉類(牛肉、豚肉、鶏肉、ターキーなど)や炒めたタマネギ、キノコ類を数日かけて一緒に煮こんだ料理。トマトや干しプラムを入れたりと、各家庭によりレシピが異なる。ポーランドの「ザ・おふくろの味」。
ジュレック…ライ麦を発酵させて、ハーブ、生クリームなどを混ぜたスープ。白ソーセージやジャガイモ、ゆで卵などが入っている(食卓を囲んだひとりが「これはポーランドのお味噌汁よ!」と言っていた)。
プラツェック…ポーランド人の主食であるジャガイモを、すりおろしたり、つぶして焼いたパンケーキ風の一品。ジャムやサワークリームなど、好みのトッピングを添えて食べる。
仕事を終えたヒトビトが私たちのレストランに続々と集結して、ポーランドの代表的なウォッカ、ジュブルフカ(日本ではズブロッカの名前で知られる)で乾杯となる。このウォッカの瓶にはバイソングラスが一本漬けられており、優しい草の香りがする。この草には桜の葉などに含まれる「クマリン」という成分が入っていて、日本人には懐かしい味わいが口中に広がる。
ショットグラスを2杯干したところで、私は生命の限界が近づいていることを悟った。激情のジャパニーズ・マリア・カラス嬢は、愛らしい(?)ラプンツェル姫にメタモルフォーゼして、そろそろ塔に帰りますと告げた。
車が用意され、皆でラプンツェル姫を塔まで送り届けてくれた。
ベルリンのホテルをチェックアウトしてから既に16時間が経過していた。16年分を生きた気がするが、次の日には16世紀分を生きることになるなど予想だにせず、ベッドに横たわるや姫は気を失った。そして翌朝、インターホンの音で目覚めるまで、静寂の塔の中、至福の安堵の眠りに身を委ねたのであった。ムシ・ブィチ・ドブジェ。
後編に続く。
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