私の人生のモットーは非常にシンプルである。そして、そのモットーはポーランド語の3つの言葉に凝縮される。
ムシ・ブィチ・ドブジェ
あまりにもシンプルで逆にうまく訳せないが、意訳を承知で言うなら「すべて上手くいく」となるだろうか(英訳はIt must be good)。
26歳の時にポーランドでこのセンテンスを耳が拾って以来、世界中でいかなる艱難が我が身を襲おうと、ひたすらこの3つの言葉を呟きながら今日まで生かされてきたように思う。
2カ月ほど前、ポーランドの芸術団体から1通の招待状が届いた。6月30日から7月4日にかけて開催されるアートフェスティバルでの公演依頼である。
その内容を読んで、私は少々度肝を抜かれた。「会場候補地として、宮殿2ヶ所(全棟使用可能)、広大な公園、ギャラリーなどがあります。また、1つの宮殿には約60台のアンティークグランドピアノが収蔵されていますので、ご自由にお使いください」と記されていたからだ。
宮殿で60台のピアノを使っての公演。これまで多くのフェスティバルにご招待頂いたが、こんなに太っ腹なオファーは初めてである。
加えて今年2019年は、日本・ポーランド国交樹立100周年という記念すべき年にあたる。フェスティバル開催時期は日本でのソロリサイタル直前で、その準備を考えるとこの夏のポーランド行きは日程的にかなり厳しいところだが、1世紀に一度の晴れがましいこの年に頂いたこの機会を逃したら、後々後悔する気がする。
そんな訳で、先月3月はツアーで渡欧していたこともあり、少々足を延ばし、下見を兼ねてポーランドを訪ねることにした。20代の頃、100回以上通った彼の国へ久々に戻るのだ。あの情熱、あの許容、あのテンペラメント、あの不屈の精神に再び触れることができるのだ。私の心は高揚した。
そもそも、フェスティバル開催団体と私は全く面識がない。去年の夏にベルリンで公演した際、在ベルリン・ポーランド人のアーティストがたまたま私のパフォーマンスを観賞しており、彼女が強く推薦してくれたことが招待のきっかけである。私の舞台を見ていないにも関わらず、そして私の人となりも知らないままお招き頂いた上、宮殿を丸々開放して下さるというこの大らかさに打たれ、予定をやりくりして2泊3日のポーランド下見旅行が叶った。
コペンハーゲンでの公演を終え、ベルリンに飛んで1泊、そこから電車でポーランドへ向かうことにした。ベルリンから1回乗り換えの5時間強の旅、最終目的地はブィドゴシュチュ。人口約36万人都市である。旅は道連れ世は情けというので、今回の旅の道連れはデンマーク人ヴァイキング3名。
鉄道は文化なり。私は電車の旅が好きだ。特にヨーロッパは陸続きで多くの国がひしめいており、電車が国境を越える度に空気感や言語が変わっていく。その際の胸の高鳴りは、ときに愉悦さえ引き起こす。
しかし結果、1回乗り換え5時間強の旅は、2回乗り換えのなんと8時間越えの旅となってしまった。ポーランドは2004年にEU加盟を果たし、EUとの貿易や投資を原動力に成長を遂げ、中・東欧諸国で随一の経済大国となった。今後も経済成長を続けると見られている。つまり、鉄道ひとつとっても、今まで単線だった路線が複線に切り替わったりの大がかりなインフラ事業が活発で、工事による電車の遅延など日常茶飯事のようなのだ。
ヴァイキング3名と私は、ベルリン中央駅でまず「1時間の遅延」の表示を見た。これを額面通り「1時間の遅延」と理解してはならない。少なくとも1時間は遅れるとの意味である。
ベルリン中央駅は、私が住んでいた2006年、サッカーのワールドカップ・ドイツ大会の開催に合わせる形で開業した。情緒や味はないが、大きくて立派な駅である。幸いというか、私ども4名は前夜にベルリンナイトライフを楽しみ過ぎて全員二日酔いでグダグダだった。中央駅構内の某ドーナツ屋で、向かい酒ならぬ、向かいドーナツを20個ほど求め、待ち時間を疲労回復に充てた。
団体での旅の場合、不測の事態に各々がどう向き合うかで、その旅の良し悪しが決まってくる。旅慣れた我が愛すべき友人たちは、誰一人として電車遅延への不満を漏らさない。その点、私は格好の旅仲間に恵まれたと言えるであろう。
1時間半遅れて、我々の電車が到着。
私たちは意気揚々と乗車した。ファーストクラスを予約していたが、蓋を開けてみれば私たちの席は「ファ」の字も感じられない庶民派のボックスシートだった。しかし、そんなことはどうでもよい。鉄道旅の旅情は、ヒトビトを寛容かつ優しくする効果がある。
ドイツから国境を越えてポーランドに入国するや、アナウンスはポーランド語に切り替わり、車掌もポーランド人となった。それまでは夢見がちに車内で過ごしていたが、ドーナツによるシュガーショックもあったろう、このあたりから私の頭は目まぐるしく働き始めた。そうだ、この電車が1時間半も遅れたことにより、予定していた次の電車への乗り換えが不可能となった。我らの旅は、プランBへの速やかな移行を要すると気づいたのだ。
ボックス席から通路に出て車掌を探し出すと、何時にどこで何行きの電車に乗り換えればよいか尋ねた。英語は通じなかったので、めちゃくちゃなポーランド語とボディランゲージ、そして筆談による会話だったが、私は時刻に関する最新情報を引き出すことに成功した。車掌によると、
(1)13時35分にこの電車はA駅に着く
(2)そこで我々は、13時27分発のB駅行きの電車に乗り換える
とのことだった。
私は己の頭の固さを恥じた。アーティストとして生きているのに、上記の8分の時間軸のよじれを受け入れるだけの柔軟性に欠けている自らを強く恥じた。
自分の融通の利かなさを正直に車掌へ伝えたところ、大層親切な彼は別の係員を連れて来た。そしてまもなく2人の間で激論が始まった。
激しい論争の末、彼らの下した結論は「ムシ・ブィチ・ドブジェ」。私たちは13時35分にA駅で降りて、そこで13時27分発のB駅行きの電車に乗ればよい。全く問題ない、ノープロブレムと彼らはジェスチャーで伝えてくる。
席に戻ってヴァイキングたちにそのことを伝えると、ああそうと、下車の支度を始めた。大荷物なので、電車から降りるだけでも一苦労だ。
13時35分、A駅に着いた。そこで私たちを待っていたのは、13時27分発の電車ではなく、現実という名の空っぽのホームであった。8分の時間軸のよじれなど、やはり存在しなかったのだ。私の顔は引き吊り、目尻は裂けんばかりとなった。
「ムッシュ・コンダクターーーー!!!」
ドスとビブラートの利いた私の絶叫が、静まり返ったホームにこだました。余談だが、私のあだ名のひとつに「ジャパニーズ・マリア・カラス」というのがある。ホームの端に降りた車掌は、阿修羅像と化した日本のマリア・カラス嬢を見るや、恐怖に身をそらしながら叫び返した。
「オー、マダーーーームッ!!!」
全身が炎に包まれたままホームを疾走し、いかにも人の良さそうな顔を困惑でいっぱいに曇らせた車掌のその肩へ顔を埋め、ジャパニーズ・ディーバは怒りとありったけの涙を親切な彼に浴びせかけた。
ムシ・ブィチ・ドブジェ。私は口中でこの言葉を念誦する。そう、すべて上手くいくはずだ。いや、上手くいく。上手くいかなければならない。今日中に、何としても最終目的地のブィドゴシュチュに辿り着かねば、この旅の全予定が狂ってしまう。
ムシ・ブィチ・ドブジェ。次編でまたお目にかかりましょう。
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