よくもまあ無事に帰国したものである。
過日、コペンハーゲンで3夜連続公演を終えた。疲労しきった私の様子を見かねた友人たちの厚意で、それはそれは素敵な別荘をご提供頂き、1人で2泊3日を過ごすことになった。桃源郷のような美しい場所で、全てをリセットして帰国までゆっくりして欲しい...。何という友情、何という心遣いであろうか。
墓石のように重いスーツケースをゴロゴロ引いてたどり着いたその別荘を見て、私は息を呑んだ。庭先にポタポタ落ちた林檎が、初冬の淡い陽光の中でまだ色褪せずに黄色く輝いている。
パステルグリーンの愛らしいアンティークのキッチン、ふかふかの大きなベッド、トイレやシャワーが完備された別荘は、もうここから一歩も出たくないほど居心地が良く、ポーチでブランケットに包(くる)まりながら本を読んだり、空の移ろいを眺めているだけであっという間に一日が過ぎていきそうだ。
この別荘に来る前、私は友人たちと固い約束を交わした。ここでは一切仕事をしない、と。
1日目の午前中はほぼ廃人状態だった。午後は私の心の友が寄ってくれたので、お茶を飲みながらしみじみと語り合い、夜は〆切の迫った原稿や、溜まりに溜まったメールの返事を書かなければならなかったが、これはまあ駐車違反の切符を切られた程度と言い訳しながら、友人たちとの約束はほぼ守られたと、安堵の眠りに就いた。
翌朝2日目は、今回のコペンハーゲン滞在最終日。
ところで以前コラムに書いたが、この街には伝説的ドラァグ・クイーンの愛すべき我が親友、ラモーナが住んでいる(記事はこちら)。早朝に彼から連絡があり、ここの別荘で朝食を共にすることとなった。
愛犬フレディーとやって来たラモーナは、卵やチーズ、野菜、パン、コーヒーに牛乳と山のような食材を抱え、美味しい朝食を作ってくれた。かなりの強風が吹いてはいるが、北欧の冬にしては珍しく晴れ渡った空、チーズをねだるフレディーの愛らしい眼、淹れたてのコーヒーの芳香、温めたパンの上にトロリと溶け出すバター。ああ、こんな幸せがあるだろうか。
2人と1匹は「ティファニーで朝食を」など歯牙にもかけぬほど優雅かつ盛大に食べ、近況を余すところなく報告し合い、お互いのエピソードを聞いて息ができなくなるほど笑った。
朝食が済むと、近くの海岸を散歩しようよとラモーナが提案。私はコートのポケットに携帯とお財布を突っ込むと、そのまま別荘を出た。
風が強いので、フレディーの耳がダンボのようにはためき、今にも空を飛びそうだ。なんて可愛いのだろう。自然の中にいるのがよほど嬉しいのか、カサコソいう落ち葉の上を跳ね回ったり、砂浜を転がったりしている。海の中にも入るフレディー。私はあまりの幸福感から気分が急激に高揚してくるのを感じた。
ビーチに我らが降臨となれば、これはアメリカの人気ドラマ「ベイウォッチ」のシーンを再現せねばなるまい。セクシー女優、パメラ・アンダーソンを気取り、私はビーチをひた走る。ラモーナがそれをビデオや写真に収める。役を入れ替え、今度は私が撮影監督で、ラモーナを撮る、撮る、撮る。
気がすむまで走り回った後、私は海にぐっと張り出した岩に仰向けで横たわった。海、空、砂浜、親友、ダンボもとい犬。
幸福という幸福が地球の一点に凝縮されている気がする。すなわち私の心臓に。
しかし本日、私にはあと2つ予定がある。岩に寝転がったまま、空と海が溶け合うさまを眼に焼き付けると、名残を残しつつ海岸を後にする。
バッグを取りに一瞬だけ別荘へ戻った。これから照明デザイナーとのアポ、そして夜は、仲間たちとの「最後の晩餐」。
携帯で地下鉄の切符を買い、私は足取りも軽く照明デザイナーの家に向かった。途中、明日の帰国に備えて念のため少し現金を下ろしておこうとATMに立ち寄りバッグを探ったところ。
財布がない.......。
一気に血の気が引いた。悪寒(おかん)が走る。ついでにおとんも走る。おかんとおとんの狭間へ、蒼白になった私は吸い込まれていった。
最後に財布を見たのはいつだろう。そうだ、海岸に行く前、携帯と財布をコートの両ポケットに突っ込んだ。
その後、別荘へ戻ってバッグに携帯を入れた。だが、財布を入れた覚えがない。朝食後、海岸へ散歩に出てから現在までコートを脱いでいないが、ポケットに財布はない...。
財布を失くしたのは間違いなく海岸だ。「ベイウォッチ」のパメラ・アンダーソンごっこに勤しんでいる時、どこかにポトリと落としたのだ。
つい半時間前、地球上の全ての幸福を手にした私に、今度は地球上の全ての不幸が襲いかかった。
北欧の日没は早く、外はもはや真っ暗。私からのメールを受け、心配して通りまで迎えに来てくれた照明デザイナーに抱えられるようにして、彼女のアパートに案内された。
心を落ち着けて、カード会社4社に電話をかけることにした。まずはクレジットカード会社2社。国外からかけているせいか、何度も電話が切れては、一からやり直し。激しい焦燥感から涙が溢れそうになる。
3件目のデビッドカード会社への電話を終えたところで、携帯と格闘し始めてからすでに40分が経過していた。最後の4件目は日本国内のみで通用するカード会社... とここまで来たところで、コーヒーと、私がこの国で一番愛する苺とチョコレートのタルトが運ばれてきた。
ここで私がとった行動とは。
まさかの「諦め」である。4枚目のカードをブロックすることを放棄して、私のために用意してくれた苺のタルトとコーヒーを、照明デザイナーの友人と楽しむことにしたのだ。こういうところの私の諦めの良さ... ではない、怠惰な性情は、おそらく一生治るまい。
ご機嫌なお茶タイムを過ごすのはよいが、明日はコペンハーゲンからアムステルダムを経て、日本帰国への旅に出なければならない。一文無しになった私は一体どうなるのだろう。
苺のタルトが美味しすぎるところで、後編に続く。
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