香苗・オルセン。デンマーク在住の糖尿病エキスパート看護師。彼女ほど有言実行のヒトを私は知らない。現在、グリーンランドの診療所に勤務するこの友人とオンラインで繋かることができた。日本人看護師が今まさに現地で従事している医療現場について、この場を借りてルポルタージュしたい。
香苗さんは日本、デンマークのさまざまな病院で経験を積み、近年はコペンハーゲンのデンマーク王立病院内分泌外来に勤務。この4月、同病院にコロナ専門のICU(集中治療室)が緊急開設された際は自ら志願し、ウイルス専門医療従事者たちと共に最前線で重症患者の命を守り続けた。
一方、昨年より家族との間である計画が持ち上がっていた。首都コペンハーゲンから車で約1時間半の場所に位置するムン島へ移住し、自給自足農業を営む新しい生活へ踏み出そうと。「看護師から農場主へ」の宣言に、我ら友人はどよめいたものである。
ICUでの仕事が一区切りつくと、ムン島で購入した1820年代(日本では江戸時代後期)に建てられた家と畑への梃(てこ)入れを開始。羊の世話や住居のリノベーションなどであっという間に季節は移ろい、冬が近づいた。農作業がひと通り落ち着いた晩秋のこと、彼女は沈思し、そして決断した。この冬場は看護師としてグリーンランドで働こう、と。
香苗さんの派遣先はナノータリック(Nanortalik)というグリーンランド最南端の町にある診療所。デンマークからこの町にタッチダウンする迄の旅程を以下にまとめてみた。
① コペンハーゲン発の飛行機でグリーンランド最大級の空港、カンゲルルススアーク空港へ
② プロペラ機に乗り換えて首都ヌークへ。天候不順のため、この地で1泊
③ 翌日セスナ機に搭乗。南グリーンランドの地方空港、ナサスワック着
④ 本旅初のヘリコプターに乗り、南グリーンランドの州都へ
⑤ 検疫のため、この地で5日間隔離
⑥ 5日目に州都病院でPCR検査を受け、陰性証明が出たところで旅に出て2機目のヘリコプターへ乗り込む
⑦ 予定では計3機のヘリコプターに搭乗のはずが、2機目のフライト中に「あれっ、何だかもう着きそう」と首を傾げている間に、最終目的地ナノータリックへ到着。パイロットの判断によるのだろうか、ひとつ中継地をすっ飛ばした模様
出発から赴任地着までゆうに1週間かかっている…。この時点でもはや探検家に近い様相を示しているが、香苗さんの本職は看護師。ここから真の奮闘記が始まるのだ。
人口約1、500人のナノータリックにある診療所では、医師1人、香苗さん含む看護師3人、准看護師とヘルパーを含む計15人が勤務している。狩や漁業での負傷した救急外来患者の手当てや入院病棟患者のケア、また周辺集落より「心筋梗塞の疑いあり」との連絡を受けてヘリで飛び、応急処置に当たりながら患者を診療所に運び込むなど、業務内容は多岐にわたる。なかには「この顔のデキモノは何ですか?」と心配そうに尋ねる中学生に「ニキビです」と対応したり、さらには「飼い犬が前脚を骨折した。ギプスを頼みます」と、動物病院と混同したケースが持ち込まれることもあるという。グリーンランド全体を俯瞰(ふかん)すると、結核の症例が多いとデータに挙がっているそうだ。
当直呼出しも頻繁にかかり多忙を極める様子だが、仕事を終えて空を仰げばオーロラが闇夜を煌々と照らし、壮大な自然が灯す光明を辿りながら白雪をサクサク踏んで帰路に就く。
鮮やかなのはグリーンランドの家々も同じで、外壁は色とりどりのペンキで塗装されており、見るからに愛らしい=写真参照。休日は周辺への散策が楽しみという香苗さんは、同僚と山まで湧き水を汲みに行ったり、グリーンランド特有の伝統「カフェミック(日本の『お茶しよう』やイギリスの『アフタヌーンティ』に近い」)に招かれて、ケーキやホットワインと共に現地のヒトビトと社交の場を持つという。
町にはタクシー1台のみ、公共交通機関は皆無なので、とにかく歩く。世界中を旅してきた彼女の確かな眼と感性はグリーンランドにおいても遺憾無く発揮され、その描写力のおかげでオンライン通話でもまるで現地にいるような心地を私にもたらしてくれる。
グリーンランドでの仕事は後半に入り、残すところ1カ月。任期満了後は(現在)ロックダウン中のデンマークに帰国の運びとなるが、香苗さんは来年以降も冬場にナノータリックへ戻り、国際糖尿病学会の基準に沿った合併症スクリーニングのデータ化とモニタリング、また地元チームと協力して成人病予防のキャンペーンを行いたいと考えている。
これまで培ってきたあまたの経験を礎(いしずえ)に、全身全霊で挑み、受け入れ、そして包み込む。生と死の現場に身を置く専門家が持つ、矜持(きょうじ)といのちに対する尊厳。彼女の生きざまを見聞きするたびに「自分も生きて生きて生きよう」という激しい律動に駆られる。
香苗・オルセン。看護師、農場主、真性の強き優しきヒト。
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