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戦争とひょうご記事一覧

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被爆から70年の「原爆の日」を前に、原爆ドーム前を流れる元安川に映し出された映像メッセージ=5日夜、広島市
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被爆から70年の「原爆の日」を前に、原爆ドーム前を流れる元安川に映し出された映像メッセージ=5日夜、広島市
原爆と震災によって大きく変えられた人生を振り返る萬みち子さん=大阪市内
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原爆と震災によって大きく変えられた人生を振り返る萬みち子さん=大阪市内

 原爆投下直後の広島市の鉄道復旧に従事した男性が終戦の翌年、苦痛にもだえながら亡くなった。遺児となった2歳の男の子を引き取ったのは、23歳だったいとこの女性だった。女性は神戸で事業を手掛け、戦後をたくましく生き抜いたが、その「息子」を阪神・淡路大震災で失う。人生を大きく変えた原爆投下から、6日で70年。萬(よろず)みち子さん(92)=大阪府豊中市=は、運命に翻弄(ほんろう)されながらも「進むべき道を精いっぱい生きた」と振り返る。(森本尚樹)

 みち子さんは1923(大正12)年、神戸市兵庫区生まれ。6歳で父を病気で失った。兵庫県立第一神戸高等女学校(現神戸高)を卒業後、川崎重工業に勤めたが、45(昭和20)年、戦況の悪化とともに三重県にあった祖父母の家に母と疎開した。

 8月、国鉄職員だった叔父が現れ、「広島に毒性の風船爆弾が落とされ、鉄道復旧作業を命じられた」と告げた。祖父母は「国鉄をやめろ」と説得したが、叔父は「絶対命令や」と聞かなかった。

 終戦後、叔父は再び姿を見せた後、姫路市の官舎に戻ったが、翌46(同21)年の正月すぎ、衰弱した姿で現れ「家ではゆっくり寝られない。ここで死なせてくれ」と頼んだ。顔や体が腫れ上がり、原爆症とみられる症状で苦しみながら死んでいった。

 叔父には3人の息子がいた。国鉄から少年訓練所の寮母という仕事を得た叔母は「2歳の子を抱えて寮母はできない」と、末っ子を夫の実家に託した。

 引き取り手が決まらない中、その子が最も懐いていたみち子さんが手を挙げた。祖父母は「結婚できなくなる」と反対したが、「命を懸けてこの子を守る」と譲らなかった。

 その子は、英治といった。

試練、愛深めた母子 焼け跡の神戸2人の原点

 

2015/8/6

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