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戦争とひょうご記事一覧

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戦後、引き上げられ再びタンカーとして修復されたせりあ丸。船底は二重構造となり、煙突も備え付けられた(船と海員の資料館提供)
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戦後、引き上げられ再びタンカーとして修復されたせりあ丸。船底は二重構造となり、煙突も備え付けられた(船と海員の資料館提供)
当時を知る高齢者から空襲のことを聞く門田会長(左)=赤穂市坂越
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当時を知る高齢者から空襲のことを聞く門田会長(左)=赤穂市坂越

 兵庫県赤穂市坂越の坂越湾で1945年7月、米軍機の爆撃を受け、沈没した油槽船「せりあ丸」。同市内で唯一、死者を出した空襲だったが、現在は地元でもほとんど語り継がれていない。戦後70年の今年、記憶を次代へつなごうと住民団体「坂越のまち並みを創る会」が当時の証言を集め、特別展を開く準備を進めている。(西竹唯太朗)

 船と海員の資料館(神戸市中央区)などによると、せりあ丸は、44年7月から約半年、フィリピンなど前戦へ物資を届け、石油を日本へ持ち帰った。多くの輸送船が空爆などで沈没させられた中、せりあ丸は3度の長距離輸送に成功。しかし、戦況の悪化で南方への航海が不可能になり、貨物船に改造が決まった。

 せりあ丸が空襲を受けたのは、45年7月28日午前6時半ごろ。改造に向かった播磨造船所(相生市)を一時離れて停泊していた坂越湾で、米軍機の空爆を受けた。船員らは船に備え付けられていた機関銃などで応戦したが、船尾の左舷に爆弾1発が直撃。機関室に命中した2発がとどめとなり、炎に包まれながら沈没した。乗組員6人が犠牲となった。

 「-創る会」のメンバーは、戦後70年を機に、坂越に残る戦争被害を後世に伝える企画を立ち上げ、5月から調査を始めた。今月14日には、当時を知る地域の高齢者を集めて座談会を開いた。

 空襲を目撃した粟井鉄芳さん(83)=同市坂越=は「警報も鳴ってないのにバリバリと飛行機の音が聞こえ、浜まで見に行くと海上に空襲による水柱が上がっていた」と証言。「夜にはまた(空襲が)来るかもしれないと思い、裏山に避難していた」と振り返った。

 現場から約2キロ離れた工場に勤めていた網家多づ子さん(89)=同市坂越=は夜勤明けの帰宅途中、空襲に遭遇したという。「米軍機が頭に届くかと思うほど低空を飛び、生きた心地がしなかった。時間からして、あの飛行機がせりあ丸を襲ったと思う」と語った。

 座談会では、当時の坂越地区の住民と、せりあ丸の乗組員の間に交流があったというエピソードも取り上げられた。住民の多くが船内を見学しており、網家さんは「船員の人にお菓子をもらったことをよく覚えている。その分、撃沈されたときは本当にショックだった」と話した。

 「今後ますます当時を知る人はいなくなる。地元で起きた戦争の悲劇を、今こそ知ってほしい」と門田守弘会長(63)。月内にも坂越まち並み館(同市坂越)で、座談会やパネル展示などを行う予定という。

【せりあ丸】 1944年、三菱重工長崎造船所で造られた陸軍所有の大型タンカー。全長約150メートル、重量約1万トン、最高速力15ノット。船名はブルネイの石油産地・セリアから付けられたとされる。45年7月、坂越湾で停泊中に米軍機の爆撃に遭遇し船員6人が死亡、沈没した。戦後の48年に海中から引き揚げられて改修され、63年まで石油の運搬を続けた

2015/8/16

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