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戦争とひょうご記事一覧

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 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2~8月、兵庫県内を14回にわたって空襲した米軍のB29爆撃機計2592機のうち、日本軍の迎撃などで機体を失ったのは24機(0・9%)だったことが、米軍資料から分かった。空襲ごとに日本軍が対空砲火や戦闘機で抗戦した記録もあるが、同年6月以降は戦闘機による迎撃が激減。専門家は「日本軍が本土決戦に備え、特攻用に機体を温存したことがうかがえる」と指摘する。

 尼崎市立地域研究史料館が米軍資料「作戦任務報告」を分析してまとめた。死者4千人超とされる6月5日朝の神戸空襲は「大阪-名古屋地域で最も激しい抗戦」と記録。日本軍の戦闘機約150機と高射砲が迎え撃ち、B29は474機のうち11機を失い(原因不明を含む)、170機以上が損傷した。

 同史料館の辻川敦館長は「昼の空襲で迎撃しやすく、高射砲が大倉山(現在の神戸市中央区)など高台にあるという利点もあった。天候不良のためか、B29を援護する高性能のP51戦闘機が付かず、日本側も戦闘機の機動性を発揮しやすかったのでは」とみる。

 だが、同報告はこの空襲を機に戦闘機を使った迎撃が激減したことを記録。死者約180人とされる7月3日夜の姫路空襲は「20機の迎撃を受けるも損失はなし」。死者約390人に上ったという同7日未明の明石空襲は「3機が現れるも迎撃なし」などと続く。

 日本軍は敗戦が濃厚となったこの時期、本土決戦を想定し、練習機を含む戦闘機を温存して特攻用に集中させようとしていたとされる。高砂市の戦史研究家上谷昭夫さん(76)によると、加古川飛行場(加古川市尾上町)でも待機の特攻隊が約20隊編成された。大半は練習機だったが、100機超が寺社や雑木林などに隠されていたという。

 戦中の防空に詳しい塚崎昌之・大阪経済法科大アジア研究所客員研究員は「日本軍は制空権を失うまで『敵地壊滅が最大の防御』として防空を重視してこなかった」と指摘。その上で「特攻機を温存して空襲に対応しないのは、国民の命を軽視していたと言われても仕方がない」とする。

(安藤文暁)

【京阪神の防空態勢】1937年7月の日中戦争開戦直後、陸軍は加古川飛行場で防空飛行隊を編成。その後、伊丹飛行場(現大阪空港)や大正飛行場(現八尾空港)に拠点を移した。43年から南方などへの転用で戦力を消耗。44年7月に絶対国防圏を破られ、45年3月に硫黄島が陥落すると、米軍の高性能戦闘機が国内の飛行場を襲撃し始めた。

2015/8/14

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