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戦争とひょうご記事一覧

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戦時中に作られた丹波焼の硫酸瓶。ネジ式のふたが付いている。戦後は製薬会社に出荷された=丹誠窯
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戦時中に作られた丹波焼の硫酸瓶。ネジ式のふたが付いている。戦後は製薬会社に出荷された=丹誠窯
丹波焼の工房で作られた地雷用容器。戦後は窯元の自宅で漬物石として使われたという=丹誠窯
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丹波焼の工房で作られた地雷用容器。戦後は窯元の自宅で漬物石として使われたという=丹誠窯
戦時中に地雷用容器が作られた工房跡。3窯元の共同工房だった=篠山市今田町上立杭
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戦時中に地雷用容器が作られた工房跡。3窯元の共同工房だった=篠山市今田町上立杭

 太平洋戦争中、篠山市の丹波焼工房で、旧日本軍の命令により陶製の地雷用容器が作られていたのをご存じだろうか。日常の器を作り続ける陶器の里も、かつては軍需品を生産せざるを得なかった。地雷用容器が作られていた元工房は老朽化のため取り壊し作業が始まったが、関係者の無念の記憶は戦後70年がたっても消えない。(井垣和子)

 戦時中、武器に不可欠な金属が不足し、金属類回収令により寺の鐘から指輪までが供出された。資源が枯渇する中、政府が目を付けたのは陶磁器製品。滋賀県の信楽焼産地が地雷と手りゅう弾用容器、岡山県の備前焼産地が手りゅう弾用容器をそれぞれ製造するなど、全国の窯元は武器生産体制に組み込まれていった。

 丹波焼産地では、篠山市今田町下立杭(たちくい)の丹誠窯に、今も地雷用容器が残る。直径22センチ、高さ10センチの陶器で、上部中央には直径4・5センチの信管用の穴。窯元の大西誠一さん(64)によると、伯父(故人)が作っていた。

 3窯元共同で地雷用容器が作られていた別の元工房(同町上立杭)では、このほど取り壊し作業が始まった。現在、建物を所有する大熊窯の大上巧さん(64)は「産地の歴史を伝える建物。残してほしいという声もあった」と打ち明けるが、老朽化でやむなく来春までの解体を決めた。

 同町下立杭の溝畑明さん(85)も終戦までの2、3年、窯元の工房で地雷用容器を作っていた。陶芸家らは徴兵されたため、工房で働くのは溝畑さんと同じ学徒動員の男子生徒3人ほどと、女子生徒3人だけだった。男子は地雷用容器の型を使って手作業で成形、乾燥して焼成。女子は上部中央に開いた穴を研磨して整えた。

 火薬や信管は、産地外の出荷先で取り付けられたとみられる。陶器の地雷は金属探知機に反応せず、水が染み込まないため火薬が長持ちし、大量生産が可能だった。

 終戦後、丹波焼の各窯元は進駐軍に見つかるのを恐れ、地雷用容器を地中に埋めて隠したが、数年後に掘り返し、湯たんぽとして売っていたという。溝畑さんは「暮らしに役立つ物が、戦争のために作られた。日常と戦争は紙一重。勉強の機会を奪われ労働を強いられるなど、私たち子どもも巻き込まれた」と話している。

【丹波焼】瀬戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、備前、越前(えちぜん)とともに日本六古窯の一つ。起源は平安時代末期とされる。生活容器の生産が主で、重厚な趣と素朴な色合いが特徴。1950年、組合員42人が集まり、丹波陶磁器協同組合(現丹波立杭陶磁器協同組合)を発足させた。現在、産地には約60の窯元が軒を連ねる。78年には「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品に指定された。

2015/8/24

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