連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

戦争とひょうご記事一覧

  • 印刷

 あの戦争で何が起き、戦後70年の今をどう思うのか。兵庫県内の体験者の言葉に耳を傾けた。きょう70回目の「終戦の日」を迎える。

【神戸空襲 リュック一つで逃げた】

 1945年3月の神戸空襲で自宅が全焼し、一家6人で三木市内の親戚宅に疎開した岡本敬子さん(79)=同市。焦土の街を歩いて命からがら逃げ延びたが、さらに苦しみは続いた。転入した小学校で、蒸したサツマイモだけの弁当をふたで隠しながら食べた。着ていたのは古い毛布を縫い上げた上着にもんぺ、着物を崩して縫ったかばん。その不格好な姿を級友にからかわれた。「せめて空腹だけなら耐えられたのに」。戦争がもたらした貧困は、少女の心を深くえぐった。

 3月17日未明、湊川神社(神戸市中央区)の近くにあった自宅で、けたたましい空襲警報の音で目を覚ました。焼夷(しょうい)弾が雨のように降り注ぐ。枕元に置いた頭巾をかぶり、非常食や薬を入れたリュックサックだけをつかんで家を飛び出た。大工だった父の仕事道具やランドセルなど、家財道具を全て失った。

 一家は、がれきの山と化した神戸を西へ進み、須磨と明石の親戚宅で一晩ずつ過ごし、3日かけて三木に到着。親戚宅の10畳ほどの離れに身を寄せた。

 45年4月、三樹(さんじゅ)国民学校(現・三木市立三樹小)の4年生に転入。女子ばかりの40人弱の学級で、岡本さんのように神戸空襲から逃げてきた子どものほか、戦災孤児になった子も何人かいた。「特に孤児の子は皆、無口でじっと下を向いたまま。誰かに引き取られてぽつり、ぽつりといなくなっていった」

 8月15日。学校の集会で終戦を知った。「やっと夜中に電気をつけられる」。心が軽くなったが、生活は元通りにはならなかった。

 「服はもらい物。捨ててあったぶかぶかの運動靴に新聞紙を詰めて履いた。弁当がなく、昼休みが終わるまで、校舎の周りを歩いて時間をつぶす日もあった。娘に弁当を持たせられなかった母の気持ちをおもんぱかると、今でも胸が痛む」

 三木中学校に進学したころ、市内の別の場所で廃材を使って小さな小屋を建て、家族で住み始めた。猛勉強の末、県立三木高校に進み、3年生になってようやく、もらい物を卒業し、自分のセーラー服に袖を通した。

 同校を卒業後、銀行に就職した。夫で現在、三木市の古刹(こさつ)、伽耶院(がやいん)の住職を務める孝道さん(80)と結婚。3人の子どもを育て、三木に住み続けた。「苦境を乗り越えた地だからこそ、特別な思い入れがある」と岡本さん。自らの戦争体験を手記にまとめ、小学校や市役所、地元の集会などで伝えている。(井上 駿)

2015/8/15

天気(7月12日)

  • 28℃
  • 24℃
  • 30%

  • 26℃
  • 22℃
  • 40%

  • 27℃
  • 23℃
  • 40%

  • 27℃
  • 23℃
  • 30%

お知らせ