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平和記念式典に出席し、慰霊碑の前で平和への願いを語る畑井克彦さん=6日午前、広島市中区、広島平和記念公園
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平和記念式典に出席し、慰霊碑の前で平和への願いを語る畑井克彦さん=6日午前、広島市中区、広島平和記念公園

 広島は6日、史上初めて原爆が投下されてから70年の「原爆の日」を迎えた。

 平和記念式典に参加した伊丹市立伊丹高校教諭の畑井克彦さん(59)=兵庫県尼崎市。母茂子さんは被爆者救護で広島市に入って残留放射能を浴び、2009年に82歳で亡くなるまで病魔にさいなまれ続けた。「70年前の夏、暑い中でよう頑張ったんやな」。慰霊碑の前にたたずみ、克彦さんは静かに語り掛けた。

 茂子さんは当時17歳で、広島県西条町(現東広島市)の女学校に通っていた。原爆投下の約1週間後、学徒動員され、爆心地から約410メートルの国民学校で救護活動を手伝った。

 死臭漂う救護所。けが人の体にわくウジ虫を箸で取り除き、傷口に赤チンを塗った-。夏が来る度、茂子さんは心に刻まれた悪夢を語った。だが、克彦さんは「母から被爆体験を聞くのが嫌で嫌で。僕に何せえっちゅうねん、と」。中学2年のころを最後に、ヒロシマが話題に上ることはなくなったという。

 教師としての活動の一環で被爆者の証言を集めた10年前から、克彦さんは「被爆2世」という立場を意識するようになった。茂子さんにもビデオカメラを向けたが、既に認知症を発症しており、記憶は戻らなかった。「遅かったんや、と後悔した」。その思いが「兵庫県被爆二世の会」結成にもつながった。

 がんを患って健康に不安を抱えるが、茂子さんの名前が記された原爆死没者名簿が奉納された5年前に続き、式典に足を運んだ。「元気なうちに、広島で生きた母の面影をつなぎ止めたかった」。原爆が残した負の遺産を伝え、向き合い続けることを、亡き母に約束した。(井上 駿)

2015/8/6

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