戦争とひょうご記事一覧
軍需工場に駆り出された学徒動員。街ががれきと化した姫路空襲。道端にあふれた多くの遺体-。日ノ本学園高校(姫路市香寺町香呂)に在学したある女性は、青春時代を戦争の真っただ中で過ごした。「必要な戦争だったのだろうか」。同校同窓生が戦時中の体験談を寄せて作製した冊子「戦争とわたし そして日ノ本」に、女性は鮮烈な記憶をつづり、今に伝えている。
■学徒動員
姫路市竹田町の黒田敦子さん(88)が日ノ本学園に入学したのは、1941(昭和16)年春だった。朝の礼拝に賛美歌の唱和。女学校の生活に心が躍った。その年の暮れ、太平洋戦争が開戦した。
44年5月、学徒動員され、市内の化学製品工場で働き始めた。火薬の原料となる硝化綿(ニトロセルロース)を扱う部署に配属され、危険を伴う作業も多かった。働き盛りの男性たちが出征に駆り出されると、女性も夜勤を担うため魚吹八幡神社(網干区宮内)を寮として寝泊まりした。
「若い人が戦場に行っているのだから、私たちが留守を守らなければいけない。嫌だとは思わなかった」
女生徒たちは大学受験の勉強も続けながら、はやりの三国志や宮本武蔵の小説の回し読みにふけった。
■消えた町
当時の自宅は、城東小学校(城東町竹之門)の校庭にあたる場所。大学の入学準備で寮の魚吹八幡から帰宅していた。近くには川西航空機姫路製作所があった。45年6月22日だった。
自宅のラジオを聞きに来た製作所員らは、突然の空襲を知らせる放送内容に慌てて避難し始めた。不安に駆られ、家族と自宅の倉庫下にある壕(ごう)へ。
「最後に入り、布団をみんなにかぶせた途端、ごう音と土ぼこりが起きた」
しばらくして壕から出ると、辺りは一変していた。製作所はB29の爆撃で壊滅。周囲の家は原形をとどめずに崩れ落ちていた。道端には、背中がザクロのように割れて血を流す人々の遺体。さらに上空に爆撃機が次々と現れ、火の海となった街を抜けるように北へ逃げた。
疲れ果てて畑の草むらで腰を下ろした時、低空飛行するアメリカの戦闘機が頭上を横切り、そのまま東の市川へ消えていった。その後、市川に避難した人々が機銃掃射に遭い、大勢が死傷したと聞いた。
「たまたま北へ向かっただけだった。そして、壕に入らなければ私たちも爆風に見舞われたと思う」
生死のはざまに、戦争の過酷さを知った。
■戦後を生きて
45年3月、50回生として日ノ本学園を卒業し、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大)に進学。そして、終戦を迎えた。
生活再建は、爆撃でなくなった自宅の建て直しから始まった。爆撃でできた穴に建物の残骸を埋めた。やっとの思いで家を建てたものの、50年1月に区画整理で立ち退きを求められた。祖母は理不尽さに心を痛め、その日に心臓まひで亡くなった。
時が流れ、30年ほど前、学徒動員でともに過ごした仲間との合同同窓会が初めて開かれた。約40年ぶりに127人が集まった。
「当時は顔も知らなかった人もいたが、本当に楽しかった。皆で青春を取り戻したかのような時間だった」
戦後70年。戦災を生き抜いた記憶を残したいと、筆を執った。
「戦争はしないに越したことはない。平和が一番」。かみしめるように、言葉を紡いだ。(金 旻革)
■「戦争とわたし そして日ノ本」12月1日発刊
日ノ本学園高校(兵庫県姫路市香寺町香呂)の卒業生18人の戦争体験をまとめた冊子「戦争とわたし そして日ノ本」が、12月1日に発刊される。過酷な時代を力強く生きた女性たちの様子が、文章からありありと浮かび上がってくる。
作製したのは同窓生でつくる「仔ひつじ会」。会長で弁護士の伊東香保さん(70)が昨年1月ごろ、戦争経験を記録で残そうと提案した。
終戦時に3歳前後だった65回生以上の計246人に同年3月、依頼状を発送して応募を呼び掛けた。そして41回生~62回生(おおよそ96歳~77歳)までの18人から寄稿があった。
姫路空襲で家族を失ったり、疎開先で差別されたりなど胸に迫る体験がつづられているがほか、日ノ本学園での学生生活の思い出が書き記されている。
伊東さんは「執筆者たちが元気で、日ノ本に心寄せているのを同窓生らに知ってもらいたい。若い世代には戦争がもたらす苦痛と愚かさが伝われば」と話している。
A5判、126ページ。1250部を印刷し在校生や同校教職員には無料で配布する。入手を希望する場合は1冊500円で購入できる(送料別途必要)。問い合わせは、まや法律事務所TEL078・351・0506
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