戦争とひょうご記事一覧
あの戦争で何が起き、戦後70年の今をどう思うのか。兵庫県内の体験者の言葉に耳を傾けた。きょう70回目の「終戦の日」を迎える。
【漂流2日、父母兄弟は海に消え】
1944(昭和19)年夏、那覇市の写真館で撮った一枚。11歳の西林弘子さん(82)=神戸市西区=が真ん中にいる。
この数日後、家族で乗り込んだ学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の攻撃で沈没。弘子さんと四女の姉=当時(20)=は奇跡的に助かったが、写真左側に写る父=当時(54)、母=同(51)、兄=同(13)、弟=同(7)=の4人を一瞬にして失った。
「死ぬまで忘れられない」-。写真を見詰め、つぶやいた。
◇
那覇で育った弘子さんは、11人家族の五女。沖縄戦に備え、同年8月21日夜、対馬丸に乗り込んだ。
翌22日夜。「どーん」という大きな音とともに、大量の海水が船内で寝ていた弘子さんらを襲った。
ごった返す甲板から、兄が救命ボートに移った。続こうとした瞬間、大きく揺れ船は沈没。弾みで海に投げ出された。ボートも転覆し、兄は海に消えた。弘子さんは見ず知らずの男性にボートに引っ張り上げられた。
夜が明け、海を見渡すと、多くの人が漂流物にしがみついていた。遠くに母と兄、弟が見えた。「母さーん」。声は届かなかった。
日差しが容赦なく照りつける。弘子さんが乗るボートから、一人、また一人と衰弱して海に転落。半数ほどになり、子どもは弘子さんだけだった。
2度目の夜が明けた。「もうあかん」。覚悟を決めた時、近づいてきた飛行機が、頭上で2、3度、旋回。それが合図だったかのように、遠くから漁船が近づいてきた。救助された安心感で眠気が襲う。「寝たら死んでまうぞ」。船員に尻や頬をたたかれた。手足は白くふやけていた。
船内で口にした粥(かゆ)はたまらなくおいしかった。鹿児島の港に着き、一緒に乗船していた四女の姉と再会。抱き合って喜んだが、両親、兄、弟の行方は分からなかった。
◇
四女は長兄のいる満州へ。弘子さんは神戸に嫁いだ次姉を頼って暮らすことになったが、その先で神戸空襲に遭った。45年6月、通っていた須磨区の南須磨国民学校が焼失。黒焦げの遺体が何体も転がっていた。
戦後は、食べ物も満足に口にできない。食糧難の中、一緒に住んでいた次姉のしゅうとめは、孫にだけにぎり飯を与えた。弘子さんはいたたまれず、防空壕(ごう)の中で泣いた。
家を出て長姉と大阪や宮崎で暮らし、さまざまな仕事をして食いつないだ。肉体労働もいとわなかった。
昭和20年代半ば、神戸に戻り、長田区のゴム会社に入社。26歳で結婚し、2人の子どもに恵まれた。やっと幸せを実感できた。
対馬丸で失った家族4人は遺骨すらない。輸送船の船員だった次兄はフィリピン沖で戦死。11人家族の5人が戦争に奪われた。
戦後70年-。この過酷な体験を語らないといけないと思うようになった。
「もう誰にもつらい思いをさせたくない。こんな時代だからこそ、『戦争はだめ』と孫や若い世代に伝えたい」(坂山真里緒)
【対馬丸事件】 1944年8月21日、那覇を出港し長崎へと向かった学童疎開船「対馬丸」が22日夜、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。国民学校の学童や教員、一般疎開者ら乗船者1788人のうち1485人が死亡。学童の死亡は780人に上った。2004年に開館した対馬丸記念館によると、漁船や哨戒艇によって救助された疎開者は177人、奄美大島に漂着して救助された人は21人とされる。
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