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戦争とひょうご記事一覧

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井垣さんが保管している認識票とつぶれた銃弾=豊岡市大手町
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井垣さんが保管している認識票とつぶれた銃弾=豊岡市大手町
召集され、中国で戦った井垣義文さん。「戦争は無意味だ」=豊岡市大手町
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召集され、中国で戦った井垣義文さん。「戦争は無意味だ」=豊岡市大手町

 太平洋戦争中に陸軍に招集され、中国の戦線に加わった兵庫県豊岡市大手町の井垣義文さん(91)は、戦闘で受けた銃弾と戦場で個人を特定するための認識票を今も保管している。経験を語ることは少なかったが、終戦から70年で思いを口にした。「戦争とは人殺し。いかに無意味なことか考えないといけない」

 京都府福知山市出身の井垣さんは商業学校を卒業し、就職した翌年の1943(昭和18)年に徴兵された。中国・洛陽で陸軍幹部候補生としての教育を受け、45年3月から作戦に加わった。事前の情報より中国軍の武器は命中率、破壊力が大きいと感じた。

 味方は砲弾に当たり、血肉が石ころのように飛んだ。近くの同僚兵は腹を負傷、「うー、うー」と低いうめき声を上げ、呼び掛けても返事がないまま死亡した。自身も銃弾を受けた。水筒に当たり、衝撃は大きかったが一命を取り留めた。

 「生きるか死ぬかは運。自由にはできない」。死と隣り合わせであることを実感した。銃弾は、数字が刻印された金属製の認識票と一緒に革製の袋に入れて「お守り」として今も持ち続けている。

 終戦は、ソ連軍に対抗する特別攻撃隊として列車で北上する途中で知った。「死を覚悟していたが、一気に空虚な感じになった」。

 満州で引き揚げ者の警護に当たり、46年6月に帰国。その後は豊岡市に移って酒類食品卸会社の設立や紳士衣料品店の経営に奔走した。「生活の立て直しに精いっぱいだった」とし、機会がなかったこともあってほとんど戦争体験を語ることはなかった。

 それでも引退後は体験を手記にまとめ、フィリピンで戦死した兄についても調べた。

 記憶はあせない。特に教育隊で受けた言葉が強く印象に残っている。「上官から『お前らは1銭5厘でなんぼでも集められるモノだ』と言われた。当時のはがき代。いかに命が軽んじられていたのか」と井垣さん。「戦争は外形的には国同士の戦いだが、個人にとっては殺し合い。いかにぶざまで無意味なことか、もっと真剣に考えてほしい。平和がいつまでも続くようにとの思いです」(若林幹夫)

2015/8/14

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