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戦争とひょうご記事一覧

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フィリピンで戦死した兄の敬一さんが最後に残したはがきを手に語る内田修二さん=丹波市柏原町東奥
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フィリピンで戦死した兄の敬一さんが最後に残したはがきを手に語る内田修二さん=丹波市柏原町東奥

 「背後に迫る機銃掃射の音が忘れられない」。太平洋戦争末期、兵庫県丹波市柏原町東奥の内田修二さん(84)は中学時代に住んでいた神戸で2度、自宅を米軍の空襲に焼かれた。生き延び、移り住んだ丹波で終戦を迎え、戦後は大好きな音楽の道を歩んだ。きょう15日で終戦から70年。「戦争は人の命を奪い、生き方さえ抑圧する」と日々の平穏をかみしめる。(岩崎昂志)

 内田さんは幼いころ兄の敬一さんと蓄音機でラベル「ボレロ」をよく聴いた。2人ともクラシック音楽のとりこになったが、太平洋戦争が始まり、フィリピンに学徒出陣した敬一さんは二度と帰ってこなかった。

 1945(昭和20)年3月17日。内田さんが住んでいた神戸市兵庫区は、米軍機の大規模空襲を受けた。未明、焼夷(しょうい)弾の落下音が暗闇を鋭く裂き、地響きと共に火の雨が降ってきた。「必死に山に逃げ、夜が明けたら町は完全に焼け野原」。家財は何も残らなかった。

 同市内に仮住まいを得たが、6月5日、再び大空襲に遭う。焼夷弾は、内田さんが逃げ込んだ防空壕(ごう)の数メートル先に落ちて炎を上げた。慌てて山へ駆け出すと、背後に「ダダダダッ」と機銃の音が迫った。燃え盛る街並みの上に、火の玉のような太陽が見えた。「混乱し、あれが落ちてくるのかと一瞬震えた」。後に自宅周辺に戻ると、全身を焼かれた人たちが息絶えていた。

    ◇

 空襲後、内田さんは柏原赤十字病院長だった父の理一郎さんがいる丹波に疎開。柏原中学に編入し、その夏に日本は敗戦した。

 食料に窮乏し、娯楽の少ない戦後生活の中で、同級生と合唱部をつくり、再び音楽にのめり込んだ。「戦時中、姉がピアノを弾いていたらどこからか『非国民だ』と声が聞こえてきた。男子ならなおさら音楽なんてやるもんじゃないと教えられていたけど、抑圧されていたんだとようやく気付いた」

 柏原高校1期生になり、内田さんはコーラス部を結成。音楽大学でも学び、後に音楽教師として柏原高などで指導した。

 今月11日、神戸にある父や兄の墓で手を合わせた。節目の年に、国内では新安保法制などの議論が続く。内田さんは「平和を守る体制は模索すべきだ」としつつ「でも、戦争をする力を持ってはいけない。あの抑圧の世の中を繰り返してはいけない」と語る。

2015/8/14

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