戦争とひょうご記事一覧
神戸市中心部の地下を走る阪神電鉄の神戸三宮-元町間。この約900メートルの区間が太平洋戦争末期の70年前、こっそりと運転を取りやめたことがある。その理由は、地下路線を軍需工場として利用するため。空襲が激化する中、飛行機部品を作る工場が疎開し、操業を続けたという。そこには、労働力不足を補うため動員された女学生の姿もあった。
(武藤邦生)
1955年に発行された阪神電鉄の社史「輸送奉仕の五十年」には、わずか1行の解説がある。〈昭和二十年三月二十八日からは三宮・元町間の隧道(ずいどう)が地下工場に利用されたため運転を休止した〉
この情報を知らせてくれた、神戸市須磨区の鉄道写真家奥田英夫さん(65)は「軍事機密で資料もほぼなく、鉄道ファンでも知らない人は多い」と話す。当時の神戸新聞を見返しても「運転休止」の記事すら見当たらない。
その忘れられた歴史を記憶する人もいる。「線路の上に3台くらいでしょうか、旋盤が置かれていました」。大阪府豊中市の梅花高等女学校専門部の生徒だった岩田昭子(てるこ)さん(88)=同市=は学徒動員として、この地下工場に駆り出された。学校から10人くらいの生徒が通ったという。
なぜ地下だったのか。
戦争末期。神戸・阪神間を含め、大都市は執拗(しつよう)な空襲に見舞われた。特に日本の生命線である航空機工場は、狙い撃ちにされた。
45年2月、軍部は軍需工場の疎開を本格化。〈特ニ緊急ナル施設ハ厳選シテ地下ニ移設スルコト〉。工場は鉱山の坑道を利用したり、新たにトンネルを掘ったりして、秘密裏に拠点を移した。事態は、公共交通を止めるにまで至っていた。
地下路線には、飛行機関連の工場が疎開した。「精機工業所」。本来は、尼崎市内にあり、海軍省管理工場として航空エンジンの精密歯車の製造に当たった。戦後の54年に入社した元社員の大西功さん(83)=尼崎市東塚口町=によると、有数の航空機メーカー中島飛行機の仕事を請け負っていたらしい。
大西さんが所有する同社の沿革には、地下工場での奮闘が記される。〈主要機械及び従業員(動員学生を含む)の大半を(阪神元町駅地下へ)移し、空襲下昼夜の別なく稼働〉
ただ、岩田さんの記憶は異なる。「仕事はしなかった」
働き盛りの男性が次々と戦地に赴き、日本は深刻な労働力不足に陥っていた。「私たちを指導する人さえいなかった。『何しに来たんだろう』という思いでした」と岩田さんは話す。真実は、はっきりしなかった。
そして終戦。運転は、45年11月に再開された。〈かねて元町-三宮間運転停止中の阪神電車は単線運転を開始した〉。ようやく新聞にも記事が載った。
【鉄道止めた極限状況】
戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表の十菱駿武(じゅうびし・しゅんぶ)・山梨学院大客員教授の話 鉄道を止めてまで工場を疎開させた例は、ほかに聞かない。極限状況を示しており、記事に載らないのも国民に伝えたくない事実だったからだろう。地下工場は湿度の高さなど条件が悪く、製造品質、作業効率とも劣ったとされ、精密さが求められる飛行機の歯車が、十分に生産できる環境だったかは疑問だ。
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