連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

記事特集

  • 印刷
フェイスブックを更新するスマートフォンを手に、震災や亡き母について語る村田美弥子さん=神戸市中央区東川崎町1
拡大
フェイスブックを更新するスマートフォンを手に、震災や亡き母について語る村田美弥子さん=神戸市中央区東川崎町1
上川きよ子さん(村田さん提供)
拡大
上川きよ子さん(村田さん提供)

 阪神・淡路大震災で母を亡くした主婦村田美弥子さん(57)=神戸市中央区=は、数年前から1月17日、会員制交流サイト「フェイスブック」(FB)に思いをつづる。明るくて面倒見が良く、一人娘の自分をいつも心配してくれた母と最後に話したのは震災の3日ほど前。ささいなことで口論になり、それが最後の会話になってしまったことが今も胸に刺さる。「あの日の1日前に戻って、『ありがとう』と伝えられたら」。そんな願いを込めた自分へのけじめであり、母へのメッセージという。

 激震の朝。村田さんは夫と2人、神戸・ポートアイランドの自宅にいた。部屋のタンスが倒れ、食器が散らばる。暗闇の中、両親が住む同市東灘区深江北町の実家に電話したが、話し中が続いた。

 状況が把握できないまま時が過ぎた。父から公衆電話で連絡があったのは午前11時半ごろ。「お母さんが駄目だから」。その一言で、電話は切れた。

 通行止めになっていた神戸大橋を夫と歩いた。三宮では市役所の一部がつぶれていた。東灘区・魚崎地区ではおじの家が崩れていた。なすすべもなく、夫が「ここに一人、人がいるはずです」と張り紙をした。

 午後4時半ごろ、実家にたどり着いた。母の上川きよ子さん=当時(65)=が寝ていた木造2階建ての1階はぺしゃんこに。父は起きていて下敷きを免れ、近所の人に助け出された。母は即死だったらしい。

 <母の体。すでに冷たくて硬くて。寝間着姿のままあちこち血がにじんでいる。圧死なのか、顔はパンパンに膨れ上がり、頭はカーラーをまいたまま。本当に母なのか? あの日の光景、恐怖、忘れようがありません>(FBから抜粋、2015年1月17日)

 一人娘の村田さんをいつも気に掛けた。共働きで昼間に親がいない近所の子どもを預かったり、大みそかに巻きずしを作って配ったりと、周囲に目配りのできる母だった。

 「感謝していたけど、言葉にして伝える機会は少なかった」。村田さんは悔やむ。震災直前の電話で口げんかになり、「もういいから」「放っといてよ」。そう告げた言葉が最後になるなど思いもよらなかった。

 <できることなら、23年と一日前に戻って、母に「ありがとう」と伝えたい。伝えたい想いは、伝えられる時にちゃんと伝える。大切な人は、大切に出来るうちに大切にする。仲直りしたい人がいるなら、仲直り出来るうちに仲直りする。でないと本当に、ふとしたきっかけで二度と会えなくなるかもしれないから。驚くほど簡単に、どこか遠くへ行ってしまうかもしれないから>(18年1月17日)

 被災直後より、10年がたち、20年が過ぎて、さみしさが増した。母がいたらなんて言っただろう。自動車会社に勤め、震災から6年後に逝った父は晩年、母の話ばかりしていた。

 <もう20年なのか、まだ20年なのか、いまだに当時の映像が流れると目をそらしてしまう。自分が生かされた意味、本当に立ち直れているのかどうかすら、この日が来るとわからなくなる。いっそ神戸から逃げ出してしまおうかと、一度は思ったけれど、やはり、生まれ育った街を離れることはできなかった>(15年1月17日)

 今年も1月17日がやってくる。空き地になった実家跡を訪ね、三宮・東遊園地で竹灯籠に火をともす。フェイスブックにつづる。会いたい思いをかみしめながら。(上田勇紀)

2019/1/16

天気(12月14日)

  • 14℃
  • 7℃
  • 20%

  • 13℃
  • 2℃
  • 50%

  • 15℃
  • 5℃
  • 10%

  • 14℃
  • 3℃
  • 30%

お知らせ