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震災を語り継ごうとドラム缶の鐘を制作した藤野春樹さん=芦屋市茶屋之町(撮影・風斗雅博)
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震災を語り継ごうとドラム缶の鐘を制作した藤野春樹さん=芦屋市茶屋之町(撮影・風斗雅博)
藤野守さん(右)と愛子さん(春樹さん提供)
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藤野守さん(右)と愛子さん(春樹さん提供)
震災で亡くなった父国夫さんの名前を触る山本国輝さん=西宮市奥畑、西宮震災記念碑公園(撮影・風斗雅博)
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震災で亡くなった父国夫さんの名前を触る山本国輝さん=西宮市奥畑、西宮震災記念碑公園(撮影・風斗雅博)
山本国夫さん(国輝さん提供)
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山本国夫さん(国輝さん提供)

 阪神・淡路大震災で家族を亡くした男性2人が、死者の名を刻んだ慰霊碑や追悼の鐘の制作に携わった。激震から17日で25年。震災モニュメントは遺族の悲しみを癒やし、惨劇の記憶を後世に伝える場にもなっている。2人は今年も17日朝、自身が手がけた碑や鐘の前で手を合わせる。

■両親犠牲、ドラム缶で寺の鐘 芦屋市南宮町藤野春樹さん(67)

 「グワーン」

 兵庫県芦屋市茶屋之町の西法寺。屋上に置かれたドラム缶の鐘を、工務店経営の藤野春樹さん(67)=同市南宮町=がゆっくりと突く。「阪神・淡路大震災 追悼之鐘」と書かれたドラム缶は、普通の釣り鐘と違ってあまり響かない。「割れた音がしますよね」と藤野さんは話す。

 震災で父の守さん=当時(74)=と母の愛子さん=当時(68)=を亡くした。両親は倒壊した自宅で布団をかぶったまま見つかった。

 一緒に店を切り盛りした守さんは、筋を通す頑固おやじだった。笑顔を見たのは藤野さんが1級建築士に合格した時だけ。愛子さんは自治会役員を引き受ける面倒見の良い母だった。

 震災後、すぐに仕事を再開。鍵がかからない、窓ガラスが割れた-。被災者から次々と依頼が入った。「親の死に後悔はない」と気持ちを切り替え、前を向いた。

 震災から8年後、西法寺の再建工事を請け負うことに。寺や避難所でたき火や風呂に使われ、体を温めてくれたドラム缶が頭に浮かんだ。「電気もお湯も当たり前にある時代にこそ、災害時に役立ったドラム缶で震災を伝えていきたい」。強い思いを形にした。

 今年も17日午前5時46分をここで被災者と迎え、鐘を突いたら両親が眠る墓に向かう。「墓前ではいつも仕事のぐちをこぼします」と笑う。(名倉あかり)

■慰霊碑建立、俺が父の名刻む 西宮市宮前町山本国輝さん(75)

 西宮市奥畑の西宮震災記念碑公園。幅約10メートルの碑には、市内で亡くなった1086人の名が6段にわたって並ぶ。17日には毎年早朝から多くの人が花を手向け、酒や菓子を供える。

 「ここには制作者じゃなくて、遺族として来とる」

 そう話すのは、山本国輝さん(75)=同市宮前町。最下段の中央に刻まれた父国夫さん=当時(84)=の名を、そっとなでる。

 震災で近くの実家は全壊。駆けつけると父は家の前に座り込み、声を掛けると「大丈夫や」と返ってきた。車に乗せ、生き埋めになった母やおいを助けて戻ると、父の手が冷たい。病院に運んだが、左脚から大量に出血していた。厚手のズボンに覆われ、気付いてやれなかった。我慢強い父らしい最期だった。

 国夫さんは家族を養うため、故郷の香川・豊島を離れて西宮で石材卸売業を始めた。「うまいもん食いたかったら努力しろ」「お膳の前は10分。あとは働け」が口癖だった。

 震災後は弟たちと商売を継いだ。慰霊碑の建立は、西宮市が遺族に宛てた手紙で知った。「おやじの名前は俺が彫る。石屋なのに他人に頼んだら、おやじが怒る」。市の事業を落札し、1年かけて完成させた。

 17日もここへ向かう。「震災を後世に伝えるものになった。『ようやった』って、おやじは言うてくれるんとちゃいますか」(斉藤絵美)

2020/1/16

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