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震災で亡くなった母に思いをはせる秋末珠実さん=17日午前6時21分、神戸市中央区、東遊園地(撮影・辰巳直之)
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震災で亡くなった母に思いをはせる秋末珠実さん=17日午前6時21分、神戸市中央区、東遊園地(撮影・辰巳直之)
奥山敦子さん
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奥山敦子さん

 あの寒さを思い出す。あの闇を思い出す。1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災は、6434人の命を奪い去った。犠牲者の一人一人に名前があり、かけがえのない人生があった。あの日から25年。子どもは亡くした親の年齢に追いつく。一緒に泣いた家族もまた、逝ってしまった。歳月は流れず、降り積む。深い祈りが、震災の記憶を伝えていく。

 「お母さん、生き方を教えてくれてありがとう」。母の奥山敦子さん=当時(49)=を亡くした兵庫県明石市職員の秋末珠実(あきすえたまみ)さん(47)は、神戸・東遊園地の「慰霊と復興のモニュメント」を訪れ、銘板の名前を何度もなでた。

 働く母だった。司法書士として神戸市中央区多聞通に4階建ての事務所兼自宅を構え、仕事に家事に、子育てに奔走していた。勉強熱心で、明るくて。人の相談に親身に乗る姿が目に焼き付いている。

 当時、珠実さんは22歳の看護学生。母娘はいつも、3階の2段ベッドで一緒に寝ていた。震災前々日の1月15日のこと。「1週間前から寝られへん」とこぼした珠実さんに、「寝る場所を変えてみたら」と敦子さんが助言した。

 それまでは珠実さんが上段、敦子さんが下段だった。16日夜、敦子さんが4階に上がり、珠実さんはベッドの下段へ。その日は、すっと寝られた。

 翌日未明。1、2階がつぶれ、4階も折れるように崩れ落ちた。3階の天井から、夜明け前の真っ暗な空が見えた。がれきに埋まった両親は近所の人が重機を使って出してくれた。父は無事だったが、母は助からなかった。

 「寝る所を変わってなければ…」。自分を責めた。夢でもいいから母に会って謝りたい。長い間、震災の話を口にできなかった。

 学校を卒業し、明石市の保健師となった。「やりたいことを見つけて自立しなあかん」「女の人も資格を取って働いて、たくましく生きないとね」。敦子さんがよく言っていた通り、仕事にまい進した。

 2011年、東日本大震災の被災地、仙台市若林区の避難所に派遣された。被災者の手を握り、津波の恐怖や悲しみに耳を傾ける。「阪神・淡路の時は助けられてばっかりだったけど、東北でお返しできた」

 そう感じたことが、一歩を踏み出すきっかけになった。明石市の中学校で東北と阪神・淡路の経験を語り、人と防災未来センター(神戸市中央区)の語り部にも登録。震災を伝えていく決意が芽生えていった。

 25年の朝に思う。一緒に過ごした時間より、失ってからの方が長くなった。もうすぐ母の年齢になる。でも、寂しくはない。「お母さんの生き方が、私の身についてる。お母さんの子で良かった」(中島摩子)

2020/1/17

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