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【特集】ニュース解く説く TOKTOK

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平和祈念公園の中にある「島守の塔」=沖縄県糸満市摩文仁
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平和祈念公園の中にある「島守の塔」=沖縄県糸満市摩文仁
島田叡・元沖縄県知事
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 6月23日は沖縄県が定める「慰霊の日」です。今年も同県糸満市の平和祈念公園で、新型コロナウイルスの感染予防に配慮し戦没者追悼式が開かれました。太平洋戦争末期の沖縄戦では、激しい地上戦が展開され住民が戦渦に巻き込まれました。犠牲者は20万人以上とされ、県民の4人に1人が亡くなりました。そんな中、神戸市須磨区出身の島田叡(あきら)知事は生命保護に尽力。地元では今も「島守(しまもり)」と慕われています。なぜ、多くの市民の命が奪われたのでしょうか。島田知事の行動を重ねながら解説します。(津谷治英)

■激しい攻撃、米軍上陸本土防衛の「捨て石」に

 終戦前年の1944(昭和19)年10月10日、沖縄の中心市街地・那覇が米軍の艦載機によって初めて空襲されました(10・10空襲)。約1500人が死傷し、市内の大半が焼失しました。沖縄戦の予兆で、以降、本島や周辺の島々への来襲が増えます。

 米軍は本土攻略の拠点として沖縄を重視しました。ここに飛行場を建設すれば、大型爆撃機のB29をはじめ、戦闘機も西日本への飛行が可能となるからです。

 45年3月中旬からは水上艦艇の砲撃も加わり、激しくなります。後に「鉄の暴風」と比喩され、住民の犠牲が増えます。

 続いて4月1日、米軍が本島中部西岸の北谷(ちゃたん)から読谷(よみたん)付近に上陸。数日で島の中部を制圧し、南北を分断しました。住民は北部への疎開が不可能になります。

 大本営は沖縄を「捨て石」とし、本土防衛のための時間を稼ぐ方針でした。そのため、沖縄の陸軍第32軍は持久戦を軸とし、地下壕(ごう)の陣地に潜みました。

 火力、兵力で圧倒的な米軍は、瞬く間に日本軍主力が控える首里に接近。第32軍は5月末には南部へ撤退します。住民にも南部避難を指示しますが、そこに安全な場所はありません。首里撤退以降、住民の犠牲は激増。日本軍の戦略に振り回されたため、尊い命を奪われたのです。

■死を覚悟の赴任 食糧調達の陣頭に

 44年の10・10空襲で戦火を目の当たりにし、沖縄県行政も混乱します。当時の県知事は軍と対立。東京へ出張して帰らず、12月末から約1カ月、知事不在の異例の事態になりました。

 現在の県知事は選挙で有権者によって選ばれる公選制ですが、当時は内務省が官僚を任命する官選制でした。事態を重くみた内務省は、大阪府の内政部長だった島田氏に白羽の矢を立てます。第32軍の牛島満司令官の要請もありました。

 間もなく戦場となる沖縄への赴任は、死を覚悟しなければなりません。それでも島田知事は45年1月31日に着任。早速、県民の県北部疎開、食糧確保の2本を柱に戦時行政に取り組みました。

 米の確保に関しては、近海の制空・制海権を米軍に握られる危険な中、台湾へ飛びます。現地で交渉して約450トンの米を入手し、輸送船も確保して沖縄への運搬に成功しました。後に、部下がこの事実を記した本を自費出版し、今に伝えられています。

 一方で行政官の立場上、軍にも協力。男子中学生の名簿を提出します。これが学徒戦闘員「鉄血勤皇隊」編成の一因になったとの批判の声もあります。

 鉄血勤皇隊の一員として戦場を体験し、戦後は知事として政府に沖縄の窮状を訴えた故大田昌秀さんは、批判に対し、疑問を投げ掛けます。島田知事は官選知事で、国の行政官だったことに着眼し、名簿提出は職務だったと説明します。

■軍と対立、戦闘止められず責任痛感し消息絶つ

 実際、島田知事は戦局悪化にともない軍と距離をとり始めます。激戦が予想される島南部への第32軍の撤退と住民避難が重なると、犠牲者の増加が懸念されます。島田知事は軍に撤退反対を申し入れます。

 大田さんは、行政官の島田知事が「県民のために軍に意見を具申した」と評価します。確かに、この時点で沖縄守備隊が降伏していれば、多くの生命が救われたはずでした。

 しかし第32軍は大本営の方針を優先し、戦闘を長引かせます。島田知事の予想は的中し、狭く、暗い避難壕に住民と兵隊が混在します。戦闘優先との建前から、味方の兵隊に追い出され、砲爆撃にさらされる住民が出始めます。泣き声が敵に聞こえて居場所が分かってしまうと、軍人に殺される幼子までいました。

 6月23日には牛島司令官が自決。日本軍の組織的な抵抗が終わった日で、県の「慰霊の日」と定められました。しかし牛島司令官は、遺言で部下らに米軍の捕虜になることを禁じ、最期まで戦うことを命じます。残された兵隊は地下に潜り、住民の犠牲も続きました。

 島田知事は壕を転々とし6月7日、県職員に県庁の解散を告げました。部下には「命を大切にするように」と言い残し、同26日を最後に消息を絶ちます。住民の犠牲を目の当たりにし責任を感じたのでしょう。遺骨は今も見つかっていません。

 戦後、行方不明になった摩文仁付近に、島田知事とともに殉職した県職員を追悼する「島守の塔」が建立されました。地元住民らの知事への感謝の思いが、そこに表れています。

【島田叡(しまだ・あきら)】 1901年、神戸市須磨区生まれ。旧制神戸二中(現兵庫高)卒業後、三高を経て東京帝国大(現東京大)へ入学。学生時代は野球部に所属して活躍。25年に旧内務省に入省し、各地の警察部長、大阪府内政部長などを歴任。45年1月、最後の官選知事として沖縄県に赴任。同年6月末以降、消息を絶つ。当時43歳。

2021/6/27
 

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