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仮設住宅での活動を振り返る岸岡孝昭さん=姫路市青山南3
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仮設住宅での活動を振り返る岸岡孝昭さん=姫路市青山南3
仮設住宅で開かれたもちつき大会。地元農家がダイコンを持ち寄った=1996年12月、姫路市玉手、玉手仮設住宅
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仮設住宅で開かれたもちつき大会。地元農家がダイコンを持ち寄った=1996年12月、姫路市玉手、玉手仮設住宅
仮設住宅を訪問する岸岡さん(左)(岸岡さん提供)
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仮設住宅を訪問する岸岡さん(左)(岸岡さん提供)

 阪神・淡路大震災の1カ月後から4年間、姫路市内の4カ所に被災者を受け入れる仮設住宅があった。「神戸から一番遠い仮設」と呼ぶ人もいた。市民と被災者が交流し、出会いと別れ、孤独死もあった。あれから22年。ボランティアグループの代表として支援した男性は「あの震災は、地域が抱える根深い問題を私たちに投げかけた」と振り返る。(木村信行)

 市内の仮設住宅は、1995年2月20日に建設が始まり、玉手、新白浜、御国野、南駅前の計569戸が整備された。神戸や近隣自治体では敷地が確保できなかったからだ。

 ボランティアグループ「姫路こころのケアネットワーク」が結成され、訪問活動を始めた。代表になった岸岡孝昭さん(70)=姫路市青山南3=の苦い経験が原点だった。

 市水道局の職員だった岸岡さんは震災翌日の1月18日、給水支援で芦屋市へ向かった。当時、姫路市に給水車はなく、4トントラックにタンクを積んで水を運んだ。パトカーに先導され、8時間かけて現地に着いた。

 「弁当ぐらいは出るだろう」と職員同士で話していたが、横倒しになった高速道路や陥没した道路を見て「ここは戦場だ」と理解した。技術職員として公共工事に携わってきた誇りを打ち砕かれた。

 帰任後は休日を利用し、芦屋市内の教会を拠点にするボランティアに加わった。自転車で避難所を回ったが、被害の大きさと避難者の多さに無力感が募った。

   ◇   ◇   ◇

 姫路市内に仮設住宅ができると知り、すぐに支援グループを結成した。「はりまいのちの電話」の相談員をしており、カウンセリングの知識があった。

 だが、受け入れられるまでに時間がかかった。「ボランティア? 何かの押し売りですか」。訪問販売と間違われ、扉を開けてくれない人もいた。

 約20人のスタッフが週1回、手分けして4カ所を回った。岸岡さんは勤務後の午後6時から連日、気になる避難者を戸別訪問した。「神戸の避難所が閉鎖され、行き場を失った高齢者が多かった」と振り返る。

 情報の格差、体力、経済力などいくつもの事情が重なった。「島流しみたいなもんや」「神戸に帰りたい」。少しずつ本音が聞けるようになった。

 95年秋、訪問を拒んでいた新白浜仮設の女性が部屋で亡くなっているのが見つかった。死後約3週間。「2人目は出さない」が合言葉になった。

 各仮設にできた集会所「ふれあいセンター」で食事会やもちつき大会を開き、交流を深めた。地元の農家が野菜を提供してくれることもあった。

 行政との相談や交渉の窓口になるよう、住民に自治会結成を働き掛け、玉手など2カ所で実現。神戸や明石市内に建設された復興住宅を見学する「バスツアー」を企画し、生活再建を後押しした。

 99年8月、最後の避難者が転居した。役割を終えた仮設住宅は翌年3月、解体された。

   ◇   ◇   ◇

 岸岡さんたちの活動はその後も続いた。

 姫路から神戸や明石市の復興住宅に移った高齢者を定期的に訪問し、東日本大震災では岩手県釜石市の仮設住宅4カ所で「ふれあいサロン」の立ち上げを手伝った。

 姫路市内の課題にも目を向けた。昨年11月には、認知症による徘(はい)徊(かい)が心配な高齢者の名前や写真を事前に登録する「SOSネットワーク」を地元の青山地区で発足させた。

 今でも仮設住宅で知り合った数人の高齢者から電話がある。

 地域の絆づくりは終わりがない。

 岸岡さんは「災害に強いまちは高齢者や子どもが住みやすいまち。毎日忙しくて、好きなゴルフもやらなくなりました」と笑った。

2017/1/16

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