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阪神・淡路大震災の発生直後、神戸と姫路を結ぶ臨時の船に乗り込む被災者の列=1995年1月、神戸市中央区波止場町(神戸港振興協会提供)
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阪神・淡路大震災の発生直後、神戸と姫路を結ぶ臨時の船に乗り込む被災者の列=1995年1月、神戸市中央区波止場町(神戸港振興協会提供)
思い出深い神戸港で語る筒井宣利さん=神戸市中央区波止場町
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思い出深い神戸港で語る筒井宣利さん=神戸市中央区波止場町

 忘れられない言葉はありますか。17日で発生21年となる阪神・淡路大震災に関し、神戸新聞社がインターネットでアンケートを行ったところ、多くのエピソードが寄せられた。励まされた。怒りを覚えた。喜び。感謝。そして涙。それぞれの言葉に、それぞれの21年がにじむ。その中にあったこんな一言。「兄ちゃん、これで生きて帰れるわ」-。

 アンケートは、神戸新聞社の読者クラブ「ミントクラブ」を通じて行った。

 「兄ちゃん-」の言葉を寄せたのは、国土交通省神戸運輸監理部の調整官、筒井宣利(のぶとし)さん(57)=明石市。地震が起きた時、姫路市の姫路海運支局(当時)の職員だった。

 陸路が遮断され、神戸港を発着する臨時旅客航路が設けられた。1995年1月28日、姫路発神戸行きの便。筒井さんは安全確認の任務で乗り込んだ。

 一部が崩れたメリケンパークの東岸壁に着き、「姫路行きの船あります」とプラカードを掲げた。寒かった。50歳くらいの男性に声を掛けられた。「姫路まで行けるんか」。作業服に無精ひげ。ボストンバッグひとつ。

 大勢の被災者を乗せた船は約3時間で再び姫路へ。下船タラップで筒井さんに握手を求める人がいた。さっきの男性だった。「ありがとう、ありがとう」。目に涙をいっぱいため、「生きて帰れる」と頭を下げた。

 瞬間、筒井さんの体はカッと熱くなった。

 高校を出て、夜間大学に通うために就いた仕事。当時は労務管理の担当で、書類とにらめっこの毎日。意義も情熱も見失いかけていた。「仕事で人に感謝されたのは初めて。人の命に関わる大切な仕事と気付かされた」

 臨時便は半年続き、約61万人を運んだ。筒井さんは神戸に戻り、港の復興に奔走。経験を生かし、3年前には神戸港の沿岸自治体などが参加する「災害時の旅客船による輸送に関する協議会」の立ち上げにも力を尽くした。

 今も分からない。あの男性はどこで被災したのか。どんな事情があり、なぜ姫路に向かったのか。ただ、彼の言葉が仕事や人生への見方を根底から変えてくれた。

 「災害に強い港をつくる、という私の原動力になった。心から感謝している」

 あれから21年。港は険しくも復興した。17日はテレビで追悼行事を見る。そして、人生を変えたあの時を思う。

【「がんばろうKOBE」が多数】

 忘れられない言葉を募ったインターネットアンケート。回答から一部を紹介する。

 多かったのがプロ野球オリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)が掲げた「がんばろうKOBE」。チームはこの合言葉の下に快進撃を続け、リーグ優勝。被災地を勇気づけた。「なんといってもこれ」とは神戸市須磨区の男性(70)。明石市の男性(44)も「がんばれ!ではなく、がんばろう。『僕もがんばるから共に』ということで一番。翌年の連覇の瞬間はスタンドで号泣した」。熱いコメントが寄せられた。

 励ましの言葉はほかにも。神戸市長田区の女性(48)は友人に「一人じゃないよ」と言われたことを挙げた。逆に「頑張ってください」と何度も言われ、「これ以上何を頑張れば…」と感じた同区の男性(55)もいた。

 同市北区の女性(47)は地震後、再開した知人の店に花束を届け「華やかな色合いに飢えていたの」と喜ばれた。「人にプレゼントする花を長いこと見ていなかった気がする」

(黒川裕生)

2016/1/14

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