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冷え込んだ日が続く中、被災者を元気づけた炊き出し=1995年1月25日、神戸市長田区一番町
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冷え込んだ日が続く中、被災者を元気づけた炊き出し=1995年1月25日、神戸市長田区一番町

 おにぎり、豚汁、カップラーメン。それがおいしかった。発生から21年がたった阪神・淡路大震災。神戸新聞社がインターネットのアンケートで震災にまつわる「忘れられない味」を募ると、地震後の情景がよみがえるような声が多く寄せられた。普段ならどれも“ごちそう”の類いではないが、エピソードからは被災地や避難先で交わされた確かなぬくもりが感じられる。(黒川裕生)

 アンケートは神戸新聞社の読者クラブ「ミントクラブ」を通じて行った。

 「寒い日々、冷たい食事の続く中、ボランティアの炊き出しで温かい物を口にできた幸せは忘れられない」

 神戸市灘区の会社員宮村利郎さん(59)はそうつづった。

 被災者が身を寄せた避難所。救援物資の弁当やパン、缶詰といった食事が続く中、ボランティアによる豚汁やおにぎりなどの炊き出しには長蛇の列ができた。温かいカップラーメンもありがたがられた。

 西宮市の女性(48)は「何げないものでも温かい食事がどれだけホッとするものか。今でもありがたく感謝の気持ちでいっぱい」と書いた。

 被災地を離れた先で口にしたものも思い出深い。

 神戸市西区の中野和彦さん(56)は「妻の実家で頂いたお好み焼きと熱かん」。地震当日、同市兵庫区の自宅は火にのまれた。

 その夕方、同市西区に住む義理の両親が軽トラックで迎えにきた。夕食のお好み焼きはその日初めて口にした食べ物だった。「やっと人心地ついた安心感もあり、普通のブタ玉がすごくおいしく感じられた」

 同市須磨区の女性(58)は「インスタントのみそ汁」。地震の約1カ月後、JR姫路駅で見知らぬ女性に手渡された。「『どちらから?』と話し掛けられたので『神戸から』と言うと、慌てて取り出してくれて。神戸を思ってくれるその気持ちがありがたかった」

 「地元の人が作ってくれたしし鍋」を懐かしむのは同市東灘区の勝田菜穂子さん(62)。地震直後、障害者のソーシャルワーカーとして、当時勤めていた石川県加賀市の病院から芦屋市の保健所に支援に入った。

 食事は毎日、パンと弁当。気の毒に思われたのか、ある日、しし鍋を振る舞われたという。「外から来た人たちのことまで気に掛けてくれる被災地の温かさに心を打たれました」。勝田さんはここで生涯の友と出会い、後に神戸に移り住んだ。

 最後に、神戸市東灘区の男性(72)が寄せてくれた言葉を。

 「あのときは何でも食べられれば涙が出るほどうれしかったですよ」

【3日間でおにぎり、パン計174万食提供】

 兵庫県の記録によると、阪神・淡路大震災後に開設された避難所はピーク(1995年1月23日)時で1153カ所、避難者数は約31万7千人。地震が起きた1月17日からの3日間で、おにぎり70万食、パン104万食、乾パン11万食などが提供された。

 その後も全国からの救援物資を含め、約2カ月間にみそ約24トン、即席麺約78万食、缶詰約36万個などを供給。自衛隊やボランティアによる炊き出しは、3月末までに計181カ所で実施された。ほかにも、各避難所では、住民らによる炊き出しが行われていた。

 当時は交通網の遮断で食料が届かない避難所も続出。ライフラインも途絶えた。教訓を踏まえ、兵庫県や県内市町は弁当給食事業者やコンビニエンスストアなどと協定を結び、生活物資の供給体制を整えている。

 兵庫県は1日分の食料を備蓄。その上で、各市町、各家庭でもそれぞれ1日分の食べ物を置いておくよう呼び掛ける。神戸市は現在、飲料水やアルファ化米、缶詰など計15万人分(2日分)を確保。今後も充実させる方針だ。

2016/1/19

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