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地震直後、救助に使った油圧ジャッキを手にする鈴木将弘さん=長田区久保町8(撮影・三浦拓也)
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地震直後、救助に使った油圧ジャッキを手にする鈴木将弘さん=長田区久保町8(撮影・三浦拓也)

 ベルトに鎖でつないだプラスチックの青いケース。その中に、ビニール製の人工呼吸器具が入っている。広げれば中央に吹き込み口があり、感染症を予防しながら息を吹き込める。

 「何ぞあった時に対処できないでは、あかんからね。消防団員はみんな持っとるよ」

 長田区久保町8で、町工場「鈴木工業所」を営む鈴木将弘さん(73)は、どこに行く時もケースを携帯する。

 昨年3月、33年間所属した長田消防団第8分団を退団した。分団では最高齢だった。5年ほど前に心臓の病気で2カ月入院。最近は体力の衰えを感じていた。

 「義務と考えてやってきたんやない。しんどいこともあるけど、少しは人の役に立っとるという感覚かな」

 思いの原点は、阪神・淡路大震災にある。

 「お父さん、地震や」

 1995年1月17日、鈴木さんは、隣で寝ていた妻に揺り起こされる。直後に突き上げるような激しい揺れ。自宅は耐えたが、2階の寝室の窓を開けると、信じられない光景が広がっていた。

 着替えて飛び出す。近くの高齢女性宅には、すでに仲間の団員がいた。倒壊した家の瓦を一緒に手ではがし、救い出すと、女性は「もう一人、中におる」と叫んだ。

 別の倒壊家屋では、屋根を壊して中に入った。ベッドの枠が崩れたはりを支え、隙間で女性が助けを待っていた。「あそこで人が埋まっとる」。また声がする。工場から油圧ジャッキ、クレーンのような器具を持ち出し、走った。商店街が燃えていた。

 鈴木さんは、この日だけで6人をがれきから助け出す。その後も救助や夜警で家にあまり帰れない日が続いた。

 幸いにも、駆けつけた現場では全員を救い出すことができた。やれることはやった。だが、長田区だけで「921人」という死者の数を前にした時、こんな思いも頭をもたげた。もっと助けられたのではないか。

 地震の後、鈴木さんは「応急手当普及員」の資格を取った。

 「まずは呼吸しているかどうか、確かめてください」。婦人会や自主防災組織を対象に開かれる講習会で、人工呼吸や心臓マッサージの仕方を実演を交えて教えた。

 消防団も強化された。ジャッキなどの器具が配備され、訓練も増えた。鈴木さんは分団長も務め、活動で休日はほとんどなくなった。

 40歳という働き盛りで消防団に入団。何も知らず、知人から誘われた時は思わず「何すんの」と聞いた。はじめのうちは、夜間の呼び出しにうんざりした。

 そんな自分がねえ…。

 熱心になればなるほど、あの日から時間がたてばたつほど、防災意識の低下が気になった。地域の訓練は、参加者が少ない時がある。訓練でポンプを動かすと、マンション住民から「うるさい」と苦情が入った。

 あれだけの災害があったのに、どうして。

 昨年12月、消防団が地域を巡回する恒例の年末警戒があった。鈴木さんは「お役に立てるなら」と、詰め所の留守番役を引き受けた。団員が出払った部屋に、どっかと腰を下ろす。ストーブにあたりながら、引退したことを実感した。少し寂しくなった。

 7カ月前、地元の中華料理店で、分団が送別会を開いてくれた。約30人の小宴。「お疲れさまでした」。「ありがとう」。妻と一緒に感謝状を受け取った。

 今、鈴木さんは息子とともに工場での本業に打ち込む。それでも、月1回のポンプ訓練には顔を出す。

 「消防団を長く続けてこられたんは、人助け、というより、いつかは自分が助けてもらわなあかん、という気持ちがあったからかな」

 助けられるための備え。得心したように笑う鈴木さんの腰に、今日も小さなケースがぶらさがる。(斉藤正志)

2015/1/10

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