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自分で撮影した写真を児童に見せ、震災発生当時の様子を語る久宝一也さん=真野小学校(撮影・小林良多)
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自分で撮影した写真を児童に見せ、震災発生当時の様子を語る久宝一也さん=真野小学校(撮影・小林良多)

 昨年12月、長田区苅藻通3の真野小学校。4年生を受け持つ久宝(きゅうほう)一也先生(38)が、拡大した1枚の地図を黒板に貼った。20人の児童が黒板の前に集まり、声を上げる。

 「わあ、真っ黒や」

 阪神・淡路大震災で19人が亡くなった真野地区。黒色は、全世帯の約2割を占める全壊家屋を表していた。地図を指さし、久宝さんは言った。

 「ここが君らもよく知ってる『6(ろく)チョコ』や」

 東尻池町6丁目の公園、通称「6チョコ」。20年前、久宝さんはここで2カ月半、テントで暮らし、ボランティアに取り組んだ。

 小学生のころ、垂水区に住んでいた久宝少年は、週末のたび、真野地区を訪ねた。6歳の時、父が病気で他界。母は忙しくなり、遊び相手を求め、伯父や年の近いいとこがいる下町に通った。

 高校3年だった1995年1月17日。自宅のたんすが倒れ、テレビが飛んだ。お昼ごろだったか。ラジオのニュースに凍り付く。「長田が燃えている」。自転車で約8キロ離れた真野地区へ向かった。

 伯父たちは無事だったが、家は全壊。久宝さんはその日のうちに、被災者が避難していた「6チョコ」にテントを張った。がれきの撤去を手伝い、救援物資を公園に運んだ。

 テント生活のさなか、久宝さんは和歌山大学教育学部の面接試験に挑む。教師になりたいという夢はあったが、今は真野の方が大事に思えた。「ボランティアをしているので、受からなくてもいいです」。面接官は驚いた様子だったが、結果はなぜか合格。後に、ある理由を知る。

 大学を出て、久宝さんは神戸市の小学校教諭になった。ただ、震災を語ることはなかった。自分の体験などちっぽけな出来事にすぎない。話をすることで、苦労した被災者を傷つけるのが怖かった。

 転機は突然、訪れた。2年前の春、真野小に異動する。少しだけ、児童に話した。

 「この学校の校庭に、仮設の風呂があったんやで」

 児童は不思議がる。「水もないのにどうやって?」

 「ビニールで囲いがあってな。自衛隊が作ったんや」

 楽しいビニールプールを連想したのか、児童たちはきゃっきゃと騒いだ。

 実際は砂で水が濁り、快適とは言えなかった。それでもみんな体を湯に沈め、「ありがたい」と喜んでいた。

 児童と話すうち、久宝さんの脳裏に、大学時代の講義で聞いた教授の言葉が鮮烈によみがえる。「震災はやがて過去になる。私のような体験者が若い世代に語り継がねば」

 その教授は西宮市の自宅が全壊したという。別の教授から、驚く話を聞いた。

 「あの先生は、君の面接官だった。人の役に立ちたい、という君のような若者を入学させるべきだと、強く合格を推していた」

 すでに教授は病気で大学を離れていた。お礼を言えないまま、亡くなったと聞いた。

 久宝さんは昨年春、真野小での防災教育担当を自ら買って出た。教授の言った通り、震災は過去になりつつあった。ここでなら、自分の体験を話せる。そう思った。

 家族から震災体験を聞くよう宿題を出すと、みんなノートにいっぱい書いてきた。

 母は偶然早起きし、倒れた棚の下敷きにならずにすんだこと。水のいらないシャンプーが配られたこと。避難所が暗くて怖かったこと-。「僕はたくさんの人が亡くなったことしか知らなかった」。そう書いた子もいた。

 ある日、児童たちと「6チョコ」に行くと、一人のおばあさんが近づいてきた。よく見たら、ここで一緒にテント暮らしをした人だった。

 「…。あんた、一也君とちゃうの。こんなとこで何しとんの」

 「いや、僕、今ここで先生やってまして」。児童がくすくすと肩を揺らす。

 20年前、街は泣いた。その街で今、子どもたちが笑い、そして学ぶ。(那谷享平)

2015/1/10

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